070926 あのトイレはいい
 
わが国は以前は無駄の効用を認める大らかさがあったが、いつの間にか近視眼的な評価が幅を効かせるようになってきた。金だけで評価するのが大阪の特徴で、そのために潤いのある都市設計がなされていないかとずっと思っていたが、昨日コラムに書いた舞洲スラッジセンターはその考えを変えるに十分であった。御堂筋に彫刻が点在しているのを見てこの都市も心の潤いに気配りする人がいるとは、実は、以前から思っていた。
 前に触れたと思うが、ブラジルのサントスの下水処理場にはピアノが置いてあるレトロな空間があり、水道局の階段の踊り場には立派な絵が飾ってあった。この都市の人々の心の豊かさを感じた。
 大阪の舞洲スラッジセンターのデザインで一番良かったのはトイレである。一階の外来者が入るトイレである。公衆トイレではないから内部だけであるが、あんな感じのいいトイレは初めて見た。そこに入って同行者が皆ほめていた。阪神・淡路大震災後にトイレ関係の調査をしたこともあり、国内外のトイレは沢山見てきたが、当センターのトイレが一番いい。ただし一階だけである。ほかの階もそうしたらよかったのではないかと思った。小生は尿意を催すことが多いこともあるが、訪れる建物では出来るだけトイレに入ることにしている。
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070925
 公共施設に美を
 先日、大阪市都市建設局舞洲スラッジセンターを見学する機会があった。大阪市の下水処理場から出る汚泥を溶融・固化する施設である。溶融スラグは建設資材として有効利用されている。溶融化処理は関西地方で好んで採用されている方法である。非常に立派でわが国の汚泥処理技術の高さを示している施設であるが、外装の奇抜さが話題を呼んで、過剰投資であるとテレビなどで一時よく批判的に報道されていた。建物の外観が800億円の建設費のうち9000万円のデザイン料でオーストリアのフリーデンスライヒ・フンデルトウ゛ァッサー(Friedensreich Hundertwasser)が設計したもので、その奇抜さに追いつかない諸氏には無駄と映ったようである。
 もともと露と消えた大阪オリンピックのために目立つ施設を作りたかったという背景がある。マラソンランナーが、やはり同じデザイナーによる奇抜の外観を持つゴミ処理施設「舞洲工場」との真ん中の通路を走ることをイメージしたらしい。設計の当初の目的はどうあれ、大変いいものが出来たというのが小生の感想である。わが国にもこのようなセンスがある人がいるなという思いである。
 公共の施設になぜもっと多様のデザインを取り入れないかと思っている。とりあえずの目的を達成するという近視眼的な費用対効果だけを取り上げたがる向きが多い。だから校舎でも同じ形の味気ないものばかりが建設される。校舎はあちこちにあるから、デザインをもっと工夫したものが存在すれば街に彩りを添えることも出来るし、子供の審美眼を養う効果もある。人にゆとりを与える、安らぎを与えるという、単純にお金に換算できない「美」というものにもっと目を向けて欲しい
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070922 蛇は大嫌い
 環境を考える時の自然の中では、ヒトは環境を構成する一員に過ぎない。しかし、ヒト中心の環境、ヒトに得か損かで環境を判断することが多いので、ヒトに和むことが正しいと思っている向きも多いのではないか。
 自分に害を与える、あるいは嫌いな動物は和む対象にはならない。それらをどう評価しているのであろうか。動物保護という時、対象となる動物はかわいい動物が多い。だからイヌやイルカのような哺乳動物が多い。
 別の見方をすればヒトが制御できる動物を対象にしている。 ヒトに害を与える動物は駆除の対象になる。駆除開始の判断レベルはかわいいか、駆除しやすいか、ヒトに害を与えるかなどによって異なる。かわいくなく害を与える動物ははじめから駆除だけの対象になる(学問上は別)。それが生態系においてどのような役割を演じているかは度外視される。
 小生は蛇が大嫌いである。イワナ釣りで山を掻き分けて登る時には蛇と出合わないように祈ったものである。子供の頃、家の客間の真ん中で絵に描いたように蜷局(トグロ)を巻いていたのを発見したことは、怖い思い出としてよく覚えている。
 蛇ではないが、インドネシアでは風呂に入っていたらヤモリが落ちてきた。靴を履く時にはサソリがいるかもしれないからはたいてから履いて下さいと注意された。ブラジルでは発赤でまともな皮膚が見えなくなったほど一日中蚊に襲われた。このような時には自然とか環境とかいうことは頭の中から飛んでいる。被害を被らないようにすることしか考えない。
 自分の研究の主テーマは「消毒」であるが、そこでは対象生物を殺すことしか考えない。「衛生」という概念ではヒトの安全ということが真ん中にドカッと座っている。水道では安全な水を供給することが責務であるから、ヒトに害を与える生物を殺すことに正当性がある。しかし自然に生存する衛生害虫をすべて敵視するのにはもしかしたら何か欠けた視点があるかも知れない。
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070921 
濃密な関係
 富山の短大に勤めていた頃、部屋から校舎間の道を兎がぴょんぴょん走ったり、雉が数羽きょろきょろしながら歩いている光景を見てびっくりしたことが数回ある。
 校舎近くの農業用水路ではメダカや鮠が沢山泳いでいた。それを掬って実験用の活性汚泥処理装置からの処理水を滞留させている水槽に入れた。処理水中でも案外元気で毎日楽しんで見ることが出来た。人に害を与えない動物を見るのは楽しい。癒される。
 自然にあこがれる一つの要素は動物との出逢いがある。それが行き過ぎると野生猿への餌付けになる。田舎は癒し効果がある野生の動物に出会える機会の多い場所である、それに緑も目に入る。だから都会生まれの都会育ちの者が田舎に住みたいというのもよくわかる。
 東京で勤めていた頃、そういう学生(特に女性)にしばしば出会った。そういう時、ムードだけで判断してはダメだと答えた。農村の人付き合いは都会より濃密である。その濃密さについて行ければよい。小生が20歳代に働いたことがある浄水場は田舎にあった。大雨で職場に行く道が冠水したが時、アスファルト道路の上を魚が沢山泳いでいた。歩くのに苦労はしたが、童心に帰り楽しかった。
 結婚する時その浄水場の横にある公舎に住む案が出た、よく聞くと祭りには若衆として参加しなくてはならないし、消防団員となりその義務としてときどき夜に詰めなくてはならないと聞いた。消防はお役所が行う事務と思っていたのでショックを受けた。勤務外のことで勤労義務が生じるのはかなわないと思って公舎に住むのを断わった。つき合いの濃密な例である。
 濃密な関係になるには、水管理や共同作業その他それなりの理由があるが、それとは無関係な別世界で生活していると、もう密な関係は鬱陶しい。
 子供の頃、隣組というシステムがあった。「とんとんとんからりんと隣組、障子を開ければ顔なじみ」という歌詞の歌があるように一見相互扶助が建前の組織であったが、役所からの意向を伝えるしくみであり、強い者が弱い者をいびる組織という印象が強かった。その反動か、今住んでいる高層共同住宅の自分の家の右も左も誰か知らない。
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070920 開票時間は長くていい
 選挙の方式を名前を書くだけでなくもっと工夫できないだろうか。
 現在のように、名前を書くだけだと自分が望む人がいない場合は棄権するしかない。たとえば、別の選挙区の人を書いても何割か割り引いても有効にするとか、公約にしても賛成不賛成を投票の時にチェックできるようにするとかして、それこそ具体的な民意を汲み取れるようにするとか。
 少しぐらい開票時間が長くなってもいい。陸上競技のタイムを争うように開票結果を早くすることにむきになることはない。
 ところで、テロ特措法が問題になっているが、どの党も説明不足ではないだろうか。新聞をじっくり読んでも、どうも本当のところがわからない。国際的に孤立するとかしないとかがしゃべる人の一方方向でしか語られていない。客観的報道がなされていない。
 小生は、もし正しければ、終戦直後ほどの貧困さに戻っても一時的に孤立化するのは構わないと思っている。それほどの覚悟を前提にしてもし正しければ思うことを主張すればよい。孤立化を恐れてはならない。孤立化が第二次世界大戦に向かわせたという経緯があってもだ。ただ、「国破れて憲法あり」になるのはどうかと思う。
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070919 「民意」と言うな
 民意というと言葉が偽善的に使われていてどうも耳障りだ。
 民主党は民意が自分の党に流れたと思い込んでいる。今回の参議院選挙の自民党の大敗を民主党がいいからだと思ったらとんでもない間違いだ。自民党の自滅にすぎない。
 二大政党だと一方が悪いともう一方が良くなってしまうという欠点がある。ナントカパパのような品格のない人を推薦するような党に国民が政治を委ねることを本当に望んでいるのであろうか。
 有名野球監督の評判の悪かった奥さんを、有名だからと言って借り出そうとした党である。政治感覚が優れているとはとても思えない。ありもしない証拠があると言った永田氏発言で党首が変わったのもつい最近のことである。それを、今回選挙に勝ったからと言って自分の党に民意が流れていると判断しているようである。選挙結果に現れるほどの大きなうねりが反対の党に動いているとはとても思えない。たとえ「民意」が単なる有名人好きであったとしても、だ。↑ページトップ
070919 世襲か吉本か
 衆参議員、地方議会の議員、それに大臣、知事、市町村長など政治家は大勢いる。そのうちテレビに映る人はほんの一握り。役職に就いている人は仕方ないが、あまりにも特定な人によって世論が作られる。
 かつて青島幸雄が都知事に当選した時に、選挙に金を使わなかったことを強調していた。しかし、直接の選挙運動ではないが「意地悪ばあさん」などに出演していたことが知名度を高めるのに役立っていたのである。ほかの候補者が同じ時間だけテレビに出演していて初めてイーブンになる。東国原知事も同様である。有名人ならとにかく会いたいという人は多いのである。  何が人を有名にするかといえば、テレビを筆頭にするマスコミである。ある能力があるからマスコミも取り上げるのであろうが、その能力と政治力とは正比例しない。
 有名にすることだけが作用していつの間にやら世の中を動かすようになってきている。これからは世襲議員か、そうでなければお笑い役者になってから政治の世界に入るのが手っ取り早い。吉本興業が「政治家部門」を作り、国政や地方政治に人材を送ったら、旬の過ぎた芸人の再生に役立ち、今の少数政党よりももっと大きい政治力を発揮できること請け合いである。二世政治家については、安部首相が世襲政治家の行き着く先の例を身をもって示したくれた。立派と言うほかない
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070918  私たちの責任
 所詮、日本の民主主義とはこんなものである。
 郵政で極端に一方の方向に傾いたと思ったら、参議院の選挙では逆方向にまた極端に動いた。極端に動いたのはわが国の国民性か制度的なものかわからないが多分両方が関係しているであろう。ちょっとした事で極端に一方に動く可能性は、あっという間に戦争に傾れを打つ可能性に繋がっている。
 ドラマでは第二次世界大戦中は軍部が強制しただけで国民は戦争を嫌がっているように組み立てているが、世論は好戦的のほうに極端に偏っていた。終戦後は8月15日の数日を経過したら皆が逆方向に民主主義を唱え出した。ちょっとしたムードによって世論は簡単に極端に走るのがわが国の特徴と思っている。
 そンな中、公約(最近ではマニフェストと言われることが多い)というのが独り歩きし始めている。
 ある人あるいはある党に投票するときにその人の公約に全部賛成しているわけでなく、比較した場合に一番賛成する部分が多い人(党)に投票する。だからある部分では反対である。しかし当選した人や勝った政党は全部が支持されたと錯覚して疑問詞のつく公約までを強引に実行しようとする。
 声高に大きなテーマが唱えられ、もっと検討すべき課題がその後ろに何気なく公約として置かれておけばそれを通す大義名分ができる。
 そのため郵政の民営化が行き過ぎて格差拡大、人口分布のアンバランスを引き起こしている。為政者はそれがわかっていてとぼけていると思っている。
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070918 大した人たち

 安部首相が突然辞めた。なかなか普通の人間にはできない芸当であった。
 放り投げるような辞任で彼の業績のすべてが忘れ去られているようであるが、戦後レジームからの脱却を掲げて「教育基本法の改正」「国民投票法の成立」「防衛庁の省への昇格」など、良否は別として大きな仕事をした。でもなんといっても今度の辞任劇が彼の最も歴史に残る仕事であろう。普通の神経の持ち主にはできないことである。
 そのような人と分かっていて70%の支持率が得られたとすれば、日本人は素晴らしい国民である。我が国行政的立場のトップの人が責任感もなく出処進退も意表のつくやり方を堂々とできる人を歓迎できるからである。
 彼を担ぐために歌と踊りで宣伝した若い議員がいた。辞表報道があった後でも自分の不明を弁護するわけでなく、堂々とテレビに出てしゃべっていた。そのような人をテレビ局が臆面もなく出演させ、責めるでもなく視聴率を高めようとする度胸も大したものである。
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070912 「故郷」と田舎と
 小学唱歌でよく歌われるものに「故郷」がある。作詞家の河野辰之の育ったところの原風景であるが、嘉田(滋賀県知事)・遊磨(龍谷大学)両先生は、ヤマメやアユが主に住んでいたところを馴染みのある鮒に変えたのが全国的に親しまれるようになったと分析している(水辺遊びの生態学:農文協)。
 歌詞を分析するのは面白い。小生は校歌の中に環境がどれほど組み込まれているかを調べたことがある。最近作られた校歌の歌詞を調べて、昔のものとの比較をしてみたいが、最近設立された学校は分析に耐えるほど数があるかどうか。
 小生の小学生の頃は周りにはフナが泳いでいる川はいくらでもあり、アメリカザリガニもよく獲ったものである。家の目の前の小川でウナギも獲って蒲焼きにして食べた。学校の帰りには畑の中で堪え切れなくて野糞をした。政令市になった静岡の駅から歩いて15分ほどのところである。ちょうど市街地と田園の境目に位置していたから、いまでは完全に市街化して全くその面影はない。農村ではなかったが、小型野生動物を捕獲して遊べ、緑もいつも目に入った。少し歩けば小山もある。だから「故郷」のニュアンスはわかるが田舎を憧れることもない。
 現在はエコブームであり都会で生まれ育った者に田舎に憧れる人がいる。兎追いしかの山に憧れる。しかし実際住むとなるとそんなに甘いものではない。元大阪市水道局長の藤原啓介氏もさるコラムで、田舎にいいイメージを持っていないと記している。
 学童疎開ではいじめがあったし、終戦前後の食糧買い出しの苦労の経験がが重なる。江戸時代以降痛みつけられた農家がやっと積年の農家以外の者に対する恨みを晴らすことができると言われた時である。リックサックに物々交換のものを詰め、ぼろくそに言われて碌な交換もできずに帰ってくるという人が多かった。「故郷」を歌って情緒を味わえない人もいるのである。
 物事を判断するときにその背面にある条件をすべて見通すのは難しく、ある先入観だけで判断しがちである.。
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070912 いつもバラックだった
 上述の同級会は出身の小学校の近くで行われたので、出席途中に久しぶりに学校を見ながら周辺を歩いた。ただし校舎は当時とは全く違うものである。それでも校舎を見ながら、ここで自分の人生の基礎の多くのものが形成されたのだという思いが脳の中で過去の思い出と綯い交ぜになり、感慨無量であった。やはり初等教育は重要である。
 わが同級会が継続しているもう一つの理由はみじめな環境を共にしたことである。入学する年(昭和15年)1月に静岡の大火があり校舎が焼けて別の校舎に仮住まいの入学であった。再建された校舎も昭和20年の空襲で焼け落ち、焼死した友もいる中で工場の跡地で授業を受け卒業した。今思うとよくそれで教育が受けられたものと思う。現在の教育現場環境と雲泥の差がある。教育は施設ではないとつくづく思う。
 どういうわけか、小生は学生、職場を通じて施設には恵まれていない。同年代の者なら皆そうかもしれないが。中学も工場跡地、高校は兵舎であった建物、大学校舎も教養部、学部を通じてバラックであった。卒業してからそれらはすべて建て替えられた。職場は6団体でお世話になったが、自分が働き始めてからの4か所の施設はもう無いし、名前まで変更されている。
校舎や施設、名前までが変わるとどうも自分が居た所という実感からずれてくる。ましてそこで働く者の中に一緒の時期に働いていた者がいなくなればもう完全に別組織である。大学もそこの卒業生という自覚に欠けてくる。そのためか大学の同級会は卒業後一度もやったことがない。しかし、母校の小学校を見た時はそれほど違和感がなく、授業を受けている光景をダブらせることができた。↑ページトップ

070911 一刻者のどら焼き
 
小学校の同級会が楽しい理由がもうひとつある。クラスメートの職業がバラエティ−に富んでいることである。中学・高校(最後の旧制中学生なので高校まで一体)、大学に行くにしたがって職業や職階が似通ってくる。小学生時代のクラスメートはいろいろの職業の者がいて、小生がいつも接する人達とは違う味があって楽しい。
 たとえば菓子屋を引き継いでいる友達がいる。その店で出している「びっくりどら焼き」は普通のどら焼きの倍以上の厚みがあり、パクつくのに苦労するほどであるが大変おいしい。総重量165グラム、皮、あんこ、皮の厚みの比率が2:5:2であんこが多く、あんこ好きにはたまらない。土産にもらったものを家族などに配ったが、甘いもの嫌いの者までおいしいと言っていた。昇栄堂という店で、そのどら焼きはインターネットで「びっくりどら焼き」をキーワードとして見ることができる。
 美味しいがその店と静岡駅のキオスクだけにしか出していない上に数が限られているので午前早くしか買うことができないそうである(似たようなものは駅の売店で売っている)。
 彼は職人気質の一刻者で、食品添加物を使わないから製品に早くかびが出やすいとのことである。買った人からカビが見つかったことを保健所に訴えるという電話が入っても、どうぞと言って謝らず、そういう物を売っていて、消費期限前に食べればそのようなことはないはずと答えるとのことである。
 その彼も後継者には悩んでいた。こういった職種と気質が違う人としゃべることができるのが楽しい。↑ページトップ

070910 小学校の同級会が楽しい
 今年6月に小学校の同級会に出席した。小学校に入学した時のクラスの会である。小学校を卒業してからしばしば開かれていて、よく続くものだと思っている。いろいろの卒業段階に応じた同窓会があるが、この同級会が一番楽しい。
 その理由はまず先生が母性溢れる素晴らしい先生であったことである。雀斑美人でまるで仏様のような微笑を湛える先生であった。機関誌「環境技術」の「曲がりくねった道」でも触れたが、遠足の途中に桜の葉を一枚ちぎった生徒にやさしく「この街のみんなが一枚ずつちぎったらこの木は枯れますよ。木が泣いています」とたしなめた。このことは環境に関する視点の小生の原点になっている情景と言葉として今でもよく覚えている。
 つぎにこのクラスが小学校入学時において早生まれ(1〜3月生れ)だけのクラスであったという特殊事情があり一体感があることがあげられる。上述の先生が小生が就職した後の会で、小学生に入る頃の成長度合いは数か月で相当の差があり、われわれのクラスの面倒に苦労したと述べられていた。
 小生の長男も4月1日生まれで、どういうわけか4月2日生まれの者から新学期の生徒になっているので、一番遅い生まれの生徒であり、入学時には自分の名前も言えないくらいであった。入学前には毎日名前だけでも言えるように特訓したものである。息子が転校するときに伺った担任の先生も生まれ月の差は歴然とおっしゃっていた。転校先でそのことがわかってくれればいいがと御懸念されていた。卒業するころにはその差は消えてくるとのことである。
 その次に楽しい理由として男女が集まる会であるというこがあるのではないかと思っている。「男女七歳にして席を同じうせず」の世代だから、小学2年までは女子と生徒と共学であったが、それ以降高校までは男子ばかりであり、大学に入っても女子学生が少なかった時代である。この同級会には小学校入学当時の女性がいる。だから若いころの同級会には女性が参加しているというときめきがあったのではないかと勝手に推測している。女性側から見ても同様であったろう。
 最近ではときめきはないが、男性一色より女性が半分参加していることで会は和む。↑ページトップ
070907 イチローは美しい
 テレビで高校野球のニュースを見ていたら、有名な司会者が佐賀北高の本塁打を打った副島の名前を、これ「ソエジマと読むのですか」と言っていた。ちょっと驚いた。テレビに出ずっぱりの司会者なら多くの名前と接する機会があるからこれぐらいは当然知っていると思っていた。
 もっとも小生は職業柄いろいろの姓名に接してきたのでそのように思うのかもしれないが。今年前期の1科目で700名以上の答案の採点をした。しかし、副島という名前はそれほど特殊ではないし、佐賀県だから明治維新の元勲の副島種民が出たところである。所詮この程度の司会者でテレビは動いているのである。
 テレビが普及してから、目立ちたいという人が多くなったのは事実である。ヒロ・ナカムラの絶叫「ヤッター」はいい。プロスポーツ選手や芸能人は有名になることと収入が比例するが、スポーツの場合、素人でもちょっと名前が出るようになると積極的に目立とうとする。マスコミがそれを煽る。ナントカ王子と言って騒ぐ。
 単なる報道でなくテレビ番組に出るようになるといい成績が残せなくなるというのが小生の持論である。今度の世界陸上でもそうだし、はにかみ王子といわれる少年ももういっぱしの有名人気取りになっているが、成績が付いてこない。その点ハンカチ王子はマスコミに流されていない。将来選手としてどれほどに活躍するかしれないが、スポーツ界でそれなりの足跡を残すであろう。
 マスコミにちやほやされドラマに出演して主演役を演じていても追従を許さない成績を残すイチローは凄い。天才といっていいだろう。彼が三塁からホームに走っていく姿は美しい。
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070906 胡麻胴乱 
 
くだらない番組と思うなら見なければよい。
くだらないからと言って権力で規制するのはよくない。自由主義経済ではどうしてもコスト原理が働いて提供する質が低下するようになる。すなわち悪貨が良貨を駆逐する。
 テレビでは放映する内容が悪くなる。ただ当事者がくだらないと思うどころか良いことをしていると思っているのが始末が悪い。視聴者もそれについ乗ってしまう。「公共」で報道されているからその番組は良いものと思って手を叩いたり感激する。作る方は調子に乗って偽善を押しつける。
 スポーツ番組は競技の結果だけを報道すればいいのに選手の子供のサポートがあったなどとお涙頂戴仕立てにする。子が親を殺し親が子を殺めるという例外はあるが、子供が支えになるのは多くの家庭で見られることである。わざわざお涙仕立てをしてくれなくてもいい。
 陸上競技の世界選手権を見ていたら、力尽きた短距離選手についてさっそく「家庭」を出してお涙仕立てが始まった。内閣改造のニュースを見ずに見ていたチャンネルを即変えた。
 一見正しいように見えて姑息なことをしているのは、教育の場も同じようなものである。学部や学科を変えて新しい体制を整えることがよく行われる。新しい時代にふさわしくするためと言っているが、実は学生を集める手段のことが多い。一種の胡麻胴乱である。
 最近の長たらしい名称の学部、学科、施設が本当に必要なら、世の中もっと良くなっているはずであるし、変わっていなければならない。数十年前のほんのいくつかの学部で名称も4文字程度の頃の体制でも今と同じ水準の研究と教育はできる。
 国の研究機関もそうである。和名は変わっているのに英文名が変わらないのが多く、英文名を見たほうがどんな施設か分かりやすい。何か変である。↑ページトップ
070905 悪貨は良貨を
 見るとはなしにテレビのチャンネルを押したら「24時間テレビ」が目に入った。なんとくだらない番組だろう。
 この局は何かすごいことをやるかの如く大分前からその番組が始まることを宣伝していた。24時間何かを放映する意味がどこにあるかわからない。「今日一日は放映しません…24時間目の休養」のほうがよっぽどいいだ。
 何が面白いかわからない演技をするピークを過ぎた漫才師に70キロマラソンをさせてわけのわからない感動仕立ての演出をしている。何にも感動しない。年寄りに長距離を走らせる意味がどこにあるのか。同じ世代のマラソン大会を行って勝者になるならまだわかる。ただ一人を走らせて完走させて喜ぶなんてナンセンスである。彼だけができることならまだしも、もっと年寄りでもっと早く走る人は大勢いるであろう。
 それを応援してゴールしたのに感激して涙を流しているタレントがいたが白けて目のやり場がない。もしギャラをもらっているので演技をしているなら迷演技である。地球環境対策へのボランティア番組らしいが、出演者のギャラは全額寄付されているのであろうか。
 「愛は地球を救う」のスローガンのもとに視聴者の寄付を集める番組らしいが、善意を押し売りし、やらせ的感激を演出するこのような番組の製作費用とコマーシャル代を寄付するほうがよっぽど上等だ。
 さるテレビ局の買収騒動の時、テレビは公共のものであると局側が言っていたが、くだらない番組を放映して何が公共のものか。「24時間テレビ」に限らず出演者同士で笑い合っている番組が多い。視聴率を高めるための安易な方法でそのような番組が作られるのであろうが、悪貨が良貨を駆逐するが如しだ
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070903 死んだ人の評価
 人が死ぬと美化されるのは一般的である。 有名人の場合、それが後世の評価に影響するから歴史の解釈は難しい。
 宮澤喜一元首相の告別式が行われた。それを報道するナレーターは、すばらしい功績を上げたと報じていた。確かにその通りかも知れないが、それなら彼が生きている時にもっと褒めることをしなかったのか。
 政治家は生きている時はぼろくそに言われることが多い。亡くなると業績を褒められる。芸術、芸能関係でも同様に、亡くなると惜しい人を亡くしたという。そんなに惜しいならなぜ存命中に褒めてやらないのかと思うことがよくある。
 人は必ず死ぬ。惜しい人が死んでも必ず次の人が出てくる。これは職場の人事でも同じことである。必ず次の人がいるのがこの世の中である。死んだ人、去った人の力が及ぶか及ばないかで一時的に差が出る場合もあるが、すぐ次世代に引き継がれる。
 小生がちょっぴり惜しいと思ったのはZARDの坂井泉水の死である。彼女の声は好きだった。好きな歌手でもピークを過ぎれば唱ってくれないほうがよい。
 ところで不思議なのは森喜朗氏である。首相の時は10%程の支持率であまり人気はなかったが、首相を退いてからいやに元気で、閣僚人事などにもいろいろ言っている。あまり彼の意見が取り上げられているとも思えないが、その元気さを現職の時に発揮すればよかった。彼を後世の人がどう評価するか興味があるが、それを確認できないのは残念である。
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070831 松原遠く
環境から醸し出されたきれいな語句は減少してきたが、それはその分だけ環境が無機化してきたことを示している。
 そのような語句は減って、わけのわからない言葉や今まで使われていた言葉が意味を変えて使われるようになってきた。
 「きもい」「シカト」は今や市民権を獲得している。「やばい」は危ないから「すごく面白い」に使われるようになってきた。「就活」も大学では一般化している。しかし、「ぱねェ」「パソ」「あえん」「カキコ」「うんぴー」はわかりますか?中途半端ネ、パソコン、ありえない、掲示板に書き込む、ウンコのことである。消えた言葉の数と新しくできた言葉の数は若者にとっては拮抗しているかもしれない。
 しかし情緒や風景を連想させる語句は減ってきた。
 波による被害を防ぐために堤防を作る、被害が少なくなればより海岸や堤防の近くまで人が住みつくことができる、人が住みつけば被害が出ないようにとの要望が高まり堤防を高くする・・・というような循環で海岸や川辺のコンクリート化が加速する。
 このように海岸の姿は童謡「海」が作られてきた頃とは大分変わってきた。地球環境温暖化で水位が上がればますますコンクリート化が進むであろう。
 海水浴場の砂が減ってきたからと外国から砂を運んだり、その砂が引き潮により減少しないように沖にそれを防ぐ離岸堤を設ける場合がある。沖を見てもその堤の向こうに水平線がある。海は広いという感覚になじまない。
  「松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ」は歌だけの世界になりつつある。このように環境変化とともに語句が減少していく。
 語句の減少のように文明が進むと進むだけ失われるものが多くなる。このごろは犯罪とマナーの悪さの種類と件数が驚くほど増えている。それらは単に教育の問題だけで片付けられるものではない。文科省が何とか委員会を設けて片付く問題ではない。育ちの質には環境が大きく影響する。
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070831 環境と言葉
 先日触れたNPOSCETでの遊磨先生の講義で、最近は環境が絡む語句が減少しているとの指摘があった。たとえば海岸の変化とともに「白砂青松」という単語が以前より使われなくなったということを例に挙げられた。
  「松原」も死語ではないがあまりロマンを感じる用語として使われていない。砂浜が減少し、松林と海岸の間に防波堤ができたりしたことやきれいな砂浜もあまりにも観光化して素朴さが失われ、そのうえゴミが散らかったりしているので、心を和ませる用語としての「松原」は死語に近くなった。
 松原としては三保の松原(静岡市)、気比の松原(敦賀市)、天橋立(宮津市)虹の松原(唐津市)、箱崎(福岡市)が有名である。小生としては、出身地というわけではないが、富士山を背景とする三保の松原が一番好きである。羽衣の松があるところであるが、最近では羽衣の松の伝説を知らない若者が多い。
 小生は全国の水浴場調査を行った関係から海岸はよく見ている。全国の水浴場の大半は見ているし、伊能忠敬ほどではないが本州、四国、九州の海岸の80%(離島は除く)は見ていると思う。上に挙げたほかにもきれいな海岸はあるが、全般的に次第に人工臭が強くなってきた。
 海岸には松原がよく似合う。
 外国のきれいな海岸も多く見たが、椰子科の木より松がよい。もっともビキニスタイルは椰子科の方が似合う。その松ももともとは砂防、防風などで人が植えたものである。富士山をバックにした由比の浜も小生の子供のころは広重の絵に近かったが、今は近代交通路のディスプレイみたいだ。
 人工とはいってもテトラポットとちがって、植物(緑)のものはやさしい風景に映る。だから「白砂青松」や「松原」は字を見ただけでも和む語句であったが、風景が変わり、それらの単語は使われなくなってきた。
 ちなみに三保の松原は白砂でなくて黒砂(富士山の火山灰)である。小生は大学生になるまでは白砂は見たことがなかったので「白砂青松」は想像上の風景であった。
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070830 朝青龍その3
 朝青龍がやっとモンゴルに帰った。何かすっきりしない。
 すっきりしない分、話題性があり大ニュースとなって報道される。日本人の多くは苛立ちを感じたと思う。その原因の主なものは謝らないこととふて腐れているように見えるからであろう。日本人のもっとも嫌うスタイルである。もっとも日本人でもそのようなものが増えてきたが。
 しかし、ああまでカメラで追う要があるか疑問に思った。まるでパパラッチだ。たとえふて腐れていても一部始終カメラが向けられてはかなわない。本人は静かに寝たかったであろう。カメラを向けるなと怒鳴りたかったと思う
。 あのように意に反してカメラを向けるのが許されるなら、海水浴場で水着姿の女性を撮るのを罰するのはどうしてだろう。意に反してレンズを向ける行為は同じである。
 女性を撮るのは品のいい行為ではない。しかし海水浴場風景を撮る時にたまたま女性が映ってしまう場合は許されるのか。女性を意識的に撮るのは、たとえば暑いことを報じるのに汗を拭いている女性を映したり、台風で傘を差すのに難儀する女性を捉えたり、甲子園で応援する女子学生に焦点を当てたりすることなど女性を主対象にして映すのは報道番組では一般化している。いちいち許可を得ているとは思えない。
 報道では良くて個人ではダメという理屈がわからない。肖像権のことはよく知らないが、どちらも本人の同意を得ていない行為では同じである。違うのは報道の場合は多くの人に見せるという目的があること、個人の場合はその個人だけが楽しむだけということであるが、個人の場合も友達など多くの人に見せると言えば同じになる。
 それにしても最近の水着姿、いや街でも見てくれと言わんばかりの服装をしている女性が多い。何がカメラを向けるなだ。文句言う資格はないぞ。朝青龍は文句も言えず、煮えくりかえった気持ちでタラップを降りたことであろう。自分の蒔いた種とわかっていればいいが。
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070829 格好の付け方
  小池元防衛大臣が再任されるかどうかわからない時に先手を打って、情報漏洩の責任を取って辞めると発言した。全くとんちんかんな発言である。 彼女の就任する前の事件に対して何の責任を取るというのか。  小生がさる公共団体に就職した時、ある事件が起きた職場に後から赴任した長が、その事件の責任で減俸の処分を受けた。そうしたら彼の奥さんが、自分の責任でもないのにどうして責任を取る必要があるのか、責任があるとしたなら何の責任か聞いて来い、もし前任者の責任をかぶるなら辞令を返してこいと怒ったそうである。尤もと言うことで当局は辞令を撤回した。
 小池氏の件も同じである。違うのは自ら他人の責任を被ろうとしたことである。責任を取ると言ったのであるから、首相もそんなこととは関係なく新しい大臣を決めたと言った方が良かった。多分、本人はいつまで経ってもくだらない責任を取って辞めたと格好を付けた気持ちでいるからである。
 格好を付けたがる姿勢は鼻持ちならないが、政治家はそれぐらいのことを平気でやるぐらいの神経がなければダメかも知れない。安部首相の鈍感力といい勝負だ。 ↑ページトップ
070829 内閣改造
 第二次安部内閣がスタートした。どんな顔ぶれになっても野党は褒めることはない。信条が違う相手だから仕方ないが、「あの集団としてはまあまあだ」と言うことがあってもいいが未だかってそのような発言を聞いたことはない。
 一次内閣の顔ぶれよりはよくなったとは思うが、もともと大臣とは、このような大臣なら期待できるというより、このような大臣になってもらいたくないと言った感じのものと思っている。
 大臣が担当省庁の事務の内容を十分に把握することはもともと不可能であり、またその必要もない。よく閣僚が官僚に押さえられているといわれ、官僚の横暴が非難されることがあるが、官僚というプロ集団が細かいことを知っていることは当然であり、大臣はそれらの事務を直感的に把握して国民の幸せのために裁けばよい。
 水利権の見直しや水行政の統合など国のためにいいに決まっている案件をいろいろのしがらみで手が打てない大臣なら誰がなっても同じである。ケチを付ける野党が政見を取っても同じだろう。
 改造直前にあった防衛庁の人事問題は面白かった。小池氏はアナウンサーのころより出世するにしたがって、よく言えば自信のある、いや自信満々の顔になってきた。悪く言えば生意気顔になってきた。四十歳を過ぎたら、人は自分の顔に責任を持てと言われるが(リンカーン)、権力志向が顔に出過ぎているかもしれない。
 マッカーサーの言った「I shall return」を最後の言葉として残したのがそれを物語っている。その点、安部首相は総理大臣になっても顔つきは変わらない。彼の取り柄であるが、政治の内容が伴わない。
 惨敗の責任を取らないことが一般社会で「事後処理をして改善するのが自分の責任である」との理屈で責任を取らない主張を一般化することにならないか懸念する
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070828 同じ顔ぶれ
 思い込みがキツイのは環境問題だけではない。政治や日常生活一般で思い込みで行動していることが多い。ある行動をとるときに一定予測が必要である。その予測は自分が知っている範囲の情報で組み立てる。しかし十分な情報が集まるまで待っていてはいつまでも行動できない。だから思い込みを単純には批判できない。
 人はもともと予測が下手である。だから他人の予測を鵜呑みにしたがる。思い込みを一定方向に組み立てるのに現在はマスコミとくにテレビの力が強い。
 あたかも何でも知っているようにしゃべるのがキャスターやコメンテーターと言われる職業である。しかもいつも同じ顔ぶれだ。そのため世論が一方向に流れがちになる。それを避けるには、コメンテーターやキャスターを頻繁に変えるべきである。
 国民が裁判員に駆り出される時代である。一定レベルの意見を持つ人を登録して順次変えながら意見を開示してもらえばよい。
 現在は選挙に当選するかどうかの基準に格好の良さ、テレビ映りの良さが影響する時代である。民主主義と言ってもそんなレベルである。ニュース番組を見るが、彼・彼女でなければという人は誰もいない。テレビ映りがいい、しゃべりなれているということで採用されているのか、別の人に頼むのも面倒くさいという番組を作る側の都合が働いているのか。 
 もっともわれわれの分野でも同じことが言える。公共団体の委員会でも、多くの有能な人は他にも多くいるだろうにいつまでも同じ顔ぶれということがよくある
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070827 ホタルの居場所
 18日の講義で印象に残ったものの一つに、遊磨先生(龍谷大学)の環境条件への思い込みが強すぎて生物分布に誤った判断をする場合があるという指摘である。
 たとえば、ホタルは田園地区と市街地でどちらで多くみられるか。
田園は緑に溢れていて市街地より自然らしさがあるから、幻想的な美しさを持つ生き物である.。ホタルは当然田園地区に多いと思われがちである。しかし野洲地区(滋賀県)で調査したら市街地のほうで多くみられたそうだ。
 調査にあたった生徒は当然田園地区のほうが多いという予想が外れて驚いたとのことである。
 思い込みの外れた原因は田園地区は冬期に水がないことである。
 田園の生産を上げるもととなり水は農業用水から供給される。冬期は水が必要でなくなるので水が流れないからホタルの生育には不利になる。
 環境に関する関心が高まり、いろいろな活動がおこなわれるようになってきた。その中には思い込みで行われているものも多いような気がする。
 一見合理的で単純なシナリオは説得力があり、さらには正義となりそのシナリオから外れることを悪として決めつける。複雑な要因の中から律速条件を見つける必要がある。
 たとえば割箸の問題である。木の消費は自然破壊につながるから割箸をやめて自分専用の箸を持とう運動がある。割箸利用が環境破壊に短絡的に結びついている。専用箸の利用には反対しないが、森林の維持に間伐が必要で、それに間伐材が割箸に利用され、森林維持に貢献していることは案外知られていない。
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070824  講演会が楽しい
 18日(土)にNPO環境技術センターの講義(環境技術指導者養成講座)を聞いた。非常に知的好奇心が揺さぶられる内容であった。
 学生の頃、よく講演会に出かけて行った。当時は講演会があるのを知る手段は新聞の広報記事ぐらいであった。興味を惹くようなテーマの講演会があるか捜し求めたものである。
 講演会の講師は与えられたテーマについて、時間内にまとめようと整理して話をする。だから講演会は自分の知識の幅を広げるのに役立つ。
 自分も講師をしたことはたびたびあるが、若いころは内容として必要と思われるものを出来るだけ網羅しようとして、結果的にあまり面白くなかったのではないかと思われる。
 歳をとるにしたがって、どうしたら出席者に興味を抱かすことができるか考えるようになった。それが成功したかは判断できないが、経験とともに相手の存在を認識する度合いが強くなるように変化してくる。なんでも若ければいいというわけにもいかない例であろう。
 現在は、大学にも講演会のビラが貼られるし、大学自体で講演会を催すことも多い。電車などにも広告が見られる。いい時代になったものである。だがはたして若者がどれほど参加しているだろうか。
 年金生活者の残りの人生の糧に出席するのも悪くないが、脳細胞の働きの最も活発な若者が多く参加することを期待したい。上述の講義でも多くの若者に聞いてもらいたいと思った。
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070823 朝青龍その2
 朝青龍がモンゴルに帰国して療養させるべきかが話題になっている。 処分の一つに謹慎がある。その謹慎する場所が問題である。 相撲協会の処分では部屋と病院に限られていた。だからモンゴルに帰ることが問題になる。
 処分するときに謹慎する場所をはじめから決めないほうがよかったのではないかと思う。決めるのは監獄に準ずるやり方である。どこが治療環境としていいのか自分で判断すればよい。場所を決めないと夜遊びなどして問題を起こすことを心配する向きもあったが、その時は新たに処分の追加を考えればよい。
 同じようなことを大学の処分で考えてみよう。 カンニングをする学生の処分をする場合、処分として停学、謹慎を命ずることがあるが、自宅謹慎とは命じていない。山に籠ろうが海外旅行しても構わない。処分は本人へのペナルティ−であり、それを受けて再起を期待するものである。また処分することによってカンニングをしなかった学生との公平性が保たれる。処分したことによってその学生がショックを受け、精神的におかしくなることもある。精神的におかしくなったから処分を取り消すことはカンニングを認めることで公平性に欠く。
 ショックがあるから処分である。それが嫌ならカンニングをしないことである。その学生はそのショックを乗り越えなくてはならない。気晴らしに停学謹慎中に旅行をするのもよいであろう。このように考えると、朝青龍の場合謹慎する場所を決めたのはよくなかったと思う。
 受けたショックを問題にしている向きもあるが、それはショックを受けるようなことをした本人が悪い。子供ではないからそれぐらいのことはわかるはずである。それがいやなら人生をやり直せばよい。人生を否定しているのではないから。
 謝らないのは悪いことをしたという自覚がないのかも知れない。文化の違いか指導の不行き届きかわからないが、小生が関係した学生の場合はカンニングしたり出席の誤魔化しがばれたりして罰を受けても謝る。このような朝青龍が引退して人気が落ちるようなら大相撲興業を国技などと言わない方がよい。

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070822 マナーの悪さは
 環境問題の多くは品格の無さの表れと言ってよい。有害物質を含むことがわかっている排水や廃棄物を排出したり、産業廃棄物を投棄するなど法律違反的行為は悪いことが分かっていることを行うのであるから明らかに品位を欠く行為である。
  河岸、海岸、公園で夜遅くまで花火遊びをする、遊んだ後にごみを放置する、高山植物を持ち帰る、河川敷を不法にゴルフ場にしたりラジコンの使用場所にする、湿原の木道から外れて歩いたり写真を撮るなどマナーの無さが環境を悪くするケースが多い。
 小生は、喫茶店で本を読んだりパソコンをしたりする機会が最近多くなったが、そこで子連れの客をよく見かける。子供が騒いだり、パンなどの食べ物に触ってそれをそのまま元に戻したり、椅子の上で土足で跳ねたりする光景をよく見る。親達は何も注意しない。環境問題はその積み重ねである。よくなるはずがない。
 山で人に出会うとき道を譲り合いながらお互いが挨拶をする。あのようなことが地上でなぜできないのか、あるいは礼儀正しい人だけが山登りをするのか。
 校舎で学生とドアーで対面する場合、道を譲る学生の割合が大学によって異なる。考えさせられることが多い。当たり前のことだが挨拶ができる子を育てることである。出処進退自ずから備わる、である
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070821 双葉山その2
 
双葉山が安芸の海に敗れて70連勝を逃した時はラジオ放送で聞いた。その時のことは今でもよく覚えている。家の冷蔵庫用の氷を日本冷蔵へ買いに行って、氷を自転車に結び付けている時であった。 昔のことは映像としてこんなことまで覚えているものである。敗れた時、双葉山がインド洋上の船舶にいた安岡正篤に「ワレイマダモッケイタリエズ」(われ未だ木鶏足りえず)と打電したというエピソードが残っている。
  相撲ばかりやっている人が木鶏に関する逸話をどうして知っているのかと疑問に思ったものである。試みに学生や大学院を出て公務員になった者に聞いても誰も知らない。伝説的な人だから美化した話が作られたのかもしれない。
 安岡正篤は元号「平成」の生みの親である。このエピソードは双葉山自身が木鶏に近づける者と自覚していたことを示すが、われわれ凡人は木鶏と比較すること自体がおこがましい小さい存在である。名横綱ともなれば人物交流の幅も広く、勉強をする時間もひねり出せたのかもしれないが、今の力士はどうだろうか。以前は年間の場所数が少なかったから、品格を高める時間も多かったかもしれない。双葉山が生きていたら、ただ馬鹿笑いするだけのテレビ番組に出ていただろうか。
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070820
 双葉山その1

 子供の頃は双葉山のファンであった。今から思っても泰然自若とした風格があった。必ず受けて立ったし勝ち方がきれいであった。溜めを残して相手を気遣うように勝った。最近の力士では二代目貴乃花にそのようなところが垣間見できた。白鵬にもその傾向がみられる。それは土俵の上だけでなく日常の振る舞いでも必要である。
 「武士は食わねど高楊枝」的な生き方、金儲け至上でない生き方はわが国の文化の中にあるはずで、勝ちさえすればいいという考え方にブレーキをかける必要がある。小生は、相撲だけでなく他のスポーツでもガッツポーズは嫌いである。母親から「試合に勝っても負けた相手のことを考えなさい、喜びは内に秘めるもの」と言われて育ったからであろうか。だからオリンピックやサッカーのワールドカップで国を上げて騒ぎ、マスコミがそれを煽るのは嫌いである。
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070818  道の先に?
 我が国は何事も「道」にしたがる。それが家元を作り集金マシーンになりがちである。品格を高める道なら賛成である。陸上選手で走った後にトラックにお辞儀をする選手がいる。そんな事をするのは日本人だけではないだろうか。柔道でも試合の最初と最後にお辞儀をする。  先日学会事務局の帰りに天神さんにお参りしたが、まず境内に入る時にお辞儀をしそれから賽銭箱の前まで行ってからお辞儀をしてからお参りをした。スポーツに品格を求めるのもわが国の一つの文化であろう。
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070817  朝青龍
小生は朝青龍のファンであった。睨む目つきをする、賞金の受け取り方が悪い、負けた相手を出稽古で痛めつけるなど悪評が多く、嫌いという人によく出会った。しかし強い。勝負で強くて何が悪いと反論して応援していた。
  ところが今度の騒ぎでいっぺんに嫌いになった。医者の診断書を提出してサッカーに興じたことまでは、よくないが目をつぶれた。学生が就職活動などの理由で授業をさぼるのに慣れているからであろう。
 その後が悪い。謝りもしなければ、処罰を受けてストレス障害を起こしたからと内にこもっている。処罰は精神的にこたえるだろうが、それに対処できる大きさを横綱は持つべきである。子供のような拗ねかたをして横綱の風格がないといわれてもしかたない。やはり強いだけでは駄目である
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070813 予測?先送り?
 近視眼的と言えば人間は元来そうかもしれない。
 過去の統計を使ってもせいぜい数十年先のことすら正確に予測が付かない。だから予測して行動をとるのが苦手である。地球環境問題の難しさはそこにある。
 小生が摂南大学を辞める時、学科で神戸市西端にある舞子ビラに1泊の招待を受けた。明石大橋が見えて大変いい施設である。夜はカラオケで盛り上がった。翌日、明石大橋を見学したがその時建設に携わった人の説明を受けた。建設の苦労話や技術の素晴らしさを聞かされたが、これだけ大きな橋が今後作られないだろうから技術の伝承が心配と語っていた。
 そこで小生は将来橋を付け替える時の方法は考えているのかと質問した。そうしたらそのような質問があることに戸惑いを感じながらそんなことは考えたことはないとのことであった。「橋の先輩国は米国だがそこでまだそのような事態になっていないから」との答えであった。 しかし最近ミネソタ州で橋の崩落があった。形あるもの必ず壊れる。伊勢神宮が20年ごとに遷宮し、その時の廃材はいろいろなことに再利用される。素晴らしいやり方である。
 水道がいま古いパイプ(経年管)の更新で頭を悩ましている。横浜や広島でパイプが破裂して水浸し・断水が報道された。直結給水で水の圧力を高める傾向がある一方でパイプが古くて脆くなっている。水道料金問題も関係するがこんなことは作る時からわかっているはずである。予測しないほうが気楽だ。だから政治の世界では先送りがよく行われている。 ↑ページTOP
070811研究発表を聴くのは?
 
先月、下水道協会の研究発表会に出席した。下水道の普及率は70%程に達したがいろいろの技術革新が行われていることや施設更新、水の再利用、管路の利用など話題が多く、併設されている下水道展は例年のごとく活気があった。
 会場のあるコーナーでテツ&トモが「マンホールの蓋はなぜ丸い、何でだろー」とやっていた。ピークを過ぎた彼等でも大勢の人が集まっていた。小生は数年前に同じ場所で行われた「消防展」で緊急トイレ関連のことで、岐阜県保健環境研の南部君らとともに立たされたことがあった。
 タレントがやるショーとは違うからぎこちなかったが、サクラもあってそれなりの人が集まった。あらかじめ興味が湧くようなシナリオを作って置けばよかったと反省している。「消防展」はあまり知られていないがすごく人が集まる展示会でビックリした。
 下水道研究発表の方も活気があったが、自治体など公共団体からの出席者が減ってきたとのことである。出張旅費が削られているからである。研究発表を聞くのは経費の無駄使いと思われているようである。現在の下水道の技術動向を短時間に知ることが出来る絶好の機会であるのに、近視眼的な風潮が濃厚になりつつあるのは残念である。研究発表会出席は下手な研修会に参加するよりよっぽど役立つ。
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070810
へそ曲がりの弁
 機関誌「環境技術」では自分の経歴に沿って思いで深かった出来事を書き綴ってきた。このコラムでは思いつくよしなしごとをその都度書き綴っていこうと思う。元来へそ曲がりであるから皆さんにはご納得いかない意見が多く記されることになるかもしれないが、そんな意見もあるのかなと見過ごしていただきたい。
 政治の世界では2大政党制がいいといわれるが、小生はそうは思わない。安定した生態系は多様性が高い。多くの異なった意見があるのが当たり前である。一見正義とみられる意見が他の意見を排除して広まれば、平気で戦争をするようになる。スポーツの応援でも同じである。
 ある都市に住む前、その都市をフランチャイズにする野球チームのフアンであったが、その都市に住むようになって応援しなくなった。回りが圧倒的に応援すると自分の気持ちは冷えてくる。こちらが何処のフアンであるかも確かめずに、そのチ−ムを応援しているのを当然のこととして話しかけてくることにしばしば出会って嫌になった。オリンピックやサッカーでも、テレビで煽れば煽るほどそっぽを向いてしまう。例外は自分の母校(静岡高校)が甲子園に出場する時である。あのスタンドで校歌を歌うのは何とも言えない。
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もくじ NO 1
070926 あのトイレはいい
070925 公共施設に美を
070922 蛇は大嫌い
070921 濃密な関係
070920 開票時間は長くていい
070919 「民意」と言うな
070919 世襲か吉本か
070918  私たちの責任

070918 大した人たち
070912
 「故郷」と田舎と
070912 いつもバラックだった

070911 一刻者のどら焼き
070910 同級会が楽しい

070907 イチローは美しい
070906 胡麻胴乱
070905 悪貨は良貨を
070903 死んだ人の評価
070831 松原遠く
070831 環境と言葉
070830 朝青龍その3

070829 格好の付け方
070829 内閣改造
070828 同じ顔ぶれ
070827 ホタルの居場所
070824 講演会が楽しい
070823 朝青龍その2
070822 マナーの悪さは
070821 双葉山その2
070820 双葉山その1

070818 道の先に?
070817
 朝青龍
070813 予測?先送り
070811 研究発表を聴くのは
07.8.10 へそ曲がりの弁
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