080331 久し振りの名古屋−1
 
大学生時代と名古屋市水道局勤務を合わせて8年間を名古屋で過ごした。父親が名古屋にも家を建て、今では兄が住んでいる。そのようなわけで名古屋とは縁が深い。自分が知っている名古屋は「偉大な田舎」と言われるほどに垢抜けしていない街であった。
 そこで、今回は、五感に訴えてくる雰囲気を昔と比較するように、ゆっくりと名古屋駅付近の街を散策した。他所の街より若者の比率が多いのにびっくりした。ちょうど祭日であったが、大阪ではESTやHePあたりは若者ばかりだが、梅田やミナミの繁華街は年金生活者と思われる人たちの比率が、最近は非常に高くなってきた。
それに比べると名古屋は若さに溢れていた。名古屋駅にある高島屋11階にある三省堂には客が大勢いた。環境と水道のコーナーに数人客がいいたのにはびっくりした。ちょうど開催中の日本水環境学会の出席者が来ているとも思えなかった。
 トヨタ自動車の力により、東海地区は元気がいいと言われている。愛知県を中心に岐阜県と三重県にその余波が及んでいるとのことである。トヨタは小生の学生の頃から上り調子で、いつの間にかトヨタ本社のある挙母(ころも)市が豊田市と名称が変わった。
 名古屋港の総取扱貨物量はここ数年は日本一である。現在の円高が続いても、主要交通手段を支える自動車産業の好況はしばらくは続くと思われるが、需要の頭打ちや環境問題によるブレーキがかかり、いつまでも自動車産業を謳歌できるとも思われない。トヨタも既に次世代をいろいろと模索していると聞く。水を美味しくすることに関して小生の所にトヨタの研究者が質問に来たことがあった。先のことを考えてのことであると言っていた。
 名古屋では駅の西側のホテルに泊まった。昔はもう少し西に行くと、東洋最大と言われた中村遊郭があった。近くに親戚があったので何度も遊郭の中を通ったものである。気のせいか白粉の匂いがした。柔道部のコンパで悪酔いして吐き気が止まらなくなったとき、遊郭の近くに開業している先輩の医者の処に部員が連れて行ってくれた。しかし、先輩は「店」にいたのでそこに運ばれた。先輩はそこの「顔」であり、てきぱきと「職業婦人」を指図し、彼女らが親切に看病してくれた。朝には体力が回復したが、お粥の朝食まで用意してくれた。後にも先にもそのような店に上がったのはその時だけである。
 中村遊郭から名古屋駅にかけては、日本有数の不安定地帯があった。20年も前になるか、摂南大学時代に地方入試がその近くで行われることになり、大学を代表して所轄の中村警察署に挨拶に行った。地方入試の関係で多くの警察に挨拶に行った経験があるが、中村署だけは異様な雰囲気があった。警官の応対は「よし、わかった。任せとけ」の調子で、暴れ者に接するがごとくであった。このようなところでは、大人しくやっておれないということが警官の態度から伺えた。そのように駅の西側は印象の良くない一帯であったが、今はまったくイメージチェンジして、安全に歩ける一帯になっていた。
 夜に親友の横山泰久医師がホテルに来てくれて、小生の病気についていろいろアドバイスしてくれた。親友とは、たとえ会う頻度が少なくなっても、何年経ってもいいものである。彼は鶴舞公園近くの名古屋では有名な横山胃腸科の理事長である。

080328 久しぶりの岐阜

 3月18〜20日に久しぶりに岐阜・名古屋へ行った。過ごしたことのある土地を生きているうちにもう一度訪れてみたいという気持ちが浮かび、この思いを、もう余命いくばくもないことの啓示と受け止め、どうしても出かけたくなった。
 まず18日に岐阜羽島駅で途中下車して、南部敏博博士(岐阜県保健環境研究所)の出迎えを受けた。彼は小生の国立公衆衛生院の時の教え子である。当時、彼に協力してもらった研究をまとめた連名の論文が、日本下水道協会の優秀論文賞を受賞した。授賞式の帰りに霞が関のレストランで祝杯を挙げたが、ワインのメニューを見てもわからなかったので、ソムリエに聞いたら「わからないと思いました」言われてしまった。田舎者のわれわれであったが、失礼な対応に腹が立ったことを今でも覚えている。
 南部君とはそれ以来の長い付き合いであるが、漁網を使った付着生物を使った排水処理を共同研究した時に、しばしば岐阜を訪れた。岐阜市の水道水は長良川の伏流水を原水としているので大変美味しい。環境に携わる人にとって知っておいて欲しい出来事として、長良川の明和治水がある。
 木曽三川に関しては、薩摩藩による宝暦治水が有名であるが、明和治水は、明和2年(1765)から始まった長州藩とその支藩である岩国藩及び小浜藩による御手伝普請であり、26万両以上を費やした総延長280kmに及ぶ大工事であった。幕府の命による御手伝い普請は、各藩の財政を極度に圧迫した。その恨みが幕末において両藩を倒幕運動に駆り立てた一つの遠因となったのではないか。
 長良川と言えば鵜飼である。松尾芭蕉は数度岐阜を訪れているが、貞享5年(1688)に妙照寺を本拠地として約一月あまり岐阜に滞在し、多くの俳句を詠んだ。下記はその一部であるが、最初の句が一番有名である。
 おもしろうて やがて悲しき鵜飼かな
 夏来ても ただひとつ葉の 一葉哉
 此のあたり 目に見ゆるものは 皆涼し
 宿りせむ あかざの杖に なる日まで
 七夕の 八月はものの 淋しくて
 城跡や 古井の清水 まず訪はむ
 送られつ 送りつ果ては木曽の秋
 草いろいろ おのおの花の 手柄かな
 南部君の家で一泊した。夕食後夜中2時ころまでカラオケで歌った。歌うことは腹ごなしに持ってこいである。奥さんのきれいな声が聞けたのも良かった。神の許しが得られるなら、このような機会を再度持ちたいものである。彼の家の近くに三田洞の弘法さん(法華寺)がある。なかなか趣のあるお寺である。また、岐阜にはわが国の三大大仏の一つ、岐阜大仏がある。竹と土と紙でできている。岐阜提灯などの伝統工芸と結びついた仏像で、日本最大の乾漆仏である。地方の特色のある寺院、庭、美術館などを訪れるのは楽しい。
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080326 チキンレース
 
度胸試しで我慢を競うゲームにチキンレースというのがある。たとえば崖淵に車を走らせ、どこまでブレーキを踏まなくて済むかなどを争うものである。その言葉がどういうわけか企業の買収合戦に使われるようになった。食うか食われるかの争いが、相手の手の内を探る根気に繋がるからか。あるいは鶏を弱者と見立ててどちらが負けるかを見極める争いを指しているのか。今の自民党と民主党の争いがまさにそれである。
 何の争いかというと、政策論争と言いたいところだが、そうではなくて単に政権を取るために争うのである。政策が争われているなら合点がいく。しかし、与党は今までのごり押し体制から抜け切れず、年金、ガソリン税、イージス艦などでミスを重ね、一方野党は、一時の社会党のように何でも反対する党になり下がっている。
 両院が拒否権みたいなものを持っていて、いつまでもそれを切り札にして身動きができない。よく言えば、自民党が衰退してきて、新しい秩序ができる生みの苦しみかも知れない。それにしても、政権を取るだけが目的になり、相手の言うことにはすべて反対するようなチキンレースをしている間は、国民は無視され続ける。まったく不毛なレースである。
 不毛なレースになるのは、どちらが早く妥協案を示してくるかだけに政策方針を執っているからである。それを回避する最善策は、参議院をなくすことではないか。衆議院の暴走を防ぐ良識の府としての役割を見失って、政局の主導権を争う場所と化した参議院は要らない。
 大相撲の仕切りには、両力士の合意によって立ち上がるという、スポーツとしては珍しいルールがある。昔は、呼吸が合わなければ何回でも仕切り直しをやった。いつかは呼吸が合う。合わなければ取り組みが消化できない。今の国会は、初めから呼吸を合わせる気持ちがないようであるから、取り組みが消化できずに夜が明けるがごとくである。
大相撲では、ラジオの実況放送スケジュールが組みにくいことから、1928年から制限時間が10分(幕内)になった。スポーツのルールがマスメディアの影響を受ける例であるが、仕切り時間の長いのは見るものが退屈するので今は原則4分になった。
 3月12日は琴欧州と鶴竜がめずらしく制限時間前に立った。名横綱の双葉山はいつでも立ち上がれるように仕切っていた、すなわち絶対待ったをしないことで有名であった。朝青龍や高見盛が、制限時間が来ると派手に振舞うのは、それまでは立ち会う気がないからであろうとの非難がある。時間が来れば立ち上がるから今の国会よりはマシである。双葉山のように、政党が成長してもらいたいものである。
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080321 日本の、これから:学力
 
3月8日にNHKのテレビ番組「日本の、これから:学力」を観た。日本の子供の学力が低下したことに関連して、「そう思うか」「どうしたらいいか」「夜スペシャルをどう思うか」「教育の規制緩和」「教員対策・評価」などについて熱い討論が為された。大変面白かったし、多くの人の意見がわかった。
 番組を観てわかったことは、小生の考えは少数意見ということである。すでにこのコラムで述べたが、小生は学力が落ちたことはあまり気にしていない。学力が落ちたことは確かであろう。大学生も、受験科目以外の知識はあまり持っていない。学力の国際的ランキングが、下位であるといっても、どこかの国が下位になる。ランキングを上げるために各国で競争するとしたら全くくだらない。
 生活する上で学力がどの程度必要かの判断がなされていない。全体的な学力が落ちても、立派な発明や技術向上に役立つ研究、それに優れた哲学や芸術などに貢献できる人は育っているはずである。平均的なレベルが下がっても、われわれに影響を与える業績を残す子供は育つ。大学院生の研究発表を見ればわかる。平均点が上がらなければ、優れた研究も出てこないという考えもあるが、発展途上国と言われる国からもいい研究業績はでてくるし、世の中に影響を与えるような業績数はそんなになくってもいい。
 例え秀出た業績が得られなくても、それはそれでいいではないか。国際競争力が低下するという指摘が複数の著名な招待者から指摘されていたが、そんなことは心配ないと思っている。競争力に必要な知識や業績は、過去からの積分であり、現在のレベルが低くても積分されたわが国の力は相当なものである。
 例え学力ランキングが下がって国際競争力が落ちても、それはそれでいいのではないか。我が国が他国より優れていなければならない理由はない。一般の人で、大学入試時に勉強した数学の微分や積分を、生涯一度でも使う人はどれほどいるのだろうか。
 小生は、大学に入るまでは学力もさることながら、まず「人の道」を身につけさせることであると思っている。何が「人の道」かについては、人によって考えが異なるところである。しかしこの頃、昔にはあまり見られなかったいろいろな犯罪が多発している。その多くは「人の道」から外れているということには異論はないであろう。そのような犯罪が起きないような世の中であって欲しい。安全・安心な状態で昼寝をして過ごせるなら、それでいいのではないか。企業戦士になってあくせく働くことはない。人生の生き方をこれからは発展途上国に教わった方がいい。
 上記の番組で、さる生徒が音楽や図工などの教科を充実してほしいという意見があったが、大賛成である。また、なぜ携帯電話にのめり込むのが楽しいのかの解析も必要である。
人との触れ合いが、電話がないときにはできなかったが、携帯電話ではよくできるという。電話でないとできないようなそんな触れ合いや情報交換は大した価値はない。何十年後に、携帯電話の電磁波によって頭のおかしくなった人々で満ち溢れた世の中にならないことを祈る。
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080319 再び参議院無用論
 
選挙で議員を選び、多数決によって議案を採決する政治形態は、よくても悪くても、結局「数」がものを言う。少数派の意見を尊重することは重要であるが、少数派の意見を汲み取るルールあるいは妥協する呼吸を練り上げないと、数だけがものを言う。現在の政治状況がそれである。
 大阪府の橋下知事が、議会で共産党議員の質問に対し、そんな事を言いたければ選挙で多数派に成ってから言え、と答弁して問題になり、その発言が議事録から削除された。少数派の意見に耳を貸さないような発言はよくないが、言おうとしたのは、政治における「数」の原理であって、おかしくない。
 政策論争の決着は「数」であり、「数」の獲得を選挙で競うのは1院制で十分である。それによって議員の数も減り、諸々の歳費が削減できる。地方の議員減少や公務員削減の範にもなる。法律の成立と施行がスピードアップする。良いことずくめである。
 世界で二院制をとっているところは多いが、それはそれなりの事情があるし、外国を見習う必要もない。わが国では、地方では首長を選挙で選ぶのに、議会は一つしかない。それで不都合は来たしていない。参議院議員の任期が6年という長期になっているのは、衆議院のように解散のある院と、もともと性格が違うものであったからであろう。政党間の政策を競う現状に合った任期ではない。3年で半数の交代はあるが、流動する情勢に適応するにはあまりにも間延びしている。その本来の性格を変えてまで対立構造を作った結果である。任期を短くする手もあるが、無くす方がベターである。
 このように、参議院を無くすことで困ることは何もない。憲法に規定されているからとの反論があるかもしれないが、在って不都合なものなら、憲法から削除すればいい。憲法は、予算と条約で衆議院の優位を認めていて、さらに法案について2/3条項がある。これは、参議院で否決されても2/3以上の多数決で衆院で可決するという条項である。最近の自衛隊による中東における給油問題でこの条項が適用された。
 この条項も、参議院で法案を審議し否決するまでの時間の規定がないので、ずるずる時間延ばしがされて、あまり有効な規定でないことは給油問題で見たごとくである。日銀総裁問題でも、憲法は世の中がうまく回転することを保証していないことがわかる。国民がより幸せに暮らせるようになるなら、憲法を改正することを躊躇してはならない。
 憲法にあるから参議院に手をつけられないというのはおかしい。主権在民である。「国破れて憲法あり」は避けたいものである。
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080318 電磁波−3 身の回りの電磁波
 
世の中に全く安全という"もの"や操作・行動はない。何らかのリスクはある。電磁波の健康リスクが許容範囲のものかよくわからないが、とにかく全く安全というわけではないので、予防原則(科学的な根拠がなくても事前回避の措置をとる)に則り、防護基準が定められている国がある。わが国の基準値は周波数1.5GHz以上は電力密度1mW/cm2(1000μW/cm2)、周波数300MHz〜1.5GHzでは、電力密度「周波数÷1500」で計算し、800MHzの携帯電話の電力密度基準は0.53mW/cm2(530μW/cm2)である。磁力密度はガウス(G)で表し、1cm2当たりの磁力線の数で表す。1Gは1000mG、10mGが1(マイクロステラ)μTである。
 携帯電話などの100KHz〜3GHzのマイクロ波に対しては、SAR(Specific Adsorption Rate;比吸収率)という安全基準がある。単位質量の組織に単位時間に吸収されるエネルギー量のことで、人体がある電波を発する機器から一定時間にどのぐらいのエネルギーを受けてもいいかという基準である。「全身平均SAR」と「局所SAR」の二つの基準値が定められている。単位はW/Kgで、1キログラム当たり何ワットの熱エネルギーを吸収するかという単位である。携帯電話は人体頭部で使用するから、局所SAR;2W/Kg(平均6分間)以下にすることが義務づけられている。
 携帯電話に関するSARが決められた時は、ヨーロッパでは数値の低い機種が爆発的に売れたと言われる。わが国ではあまり聞いたことはないが、SARは取扱説明書や販売店で分かるから、お手持ちの機種や購買するときに確かめていはいかが?あまり気にすることはないと思うが。
 ついでに、身の回りの電化製品で、電磁波が漏洩するものの例を挙げると;テレビ、ラジオ、電子レンジ、電磁調理器(IHクッキングヒーター)、電気カーペット・電気毛布、電気こたつ、ヘアードライヤー、電気ミキサー、電気掃除機、蛍光灯、電気カミソリなどがある。電磁調理器は、強い磁場が発生しかつ開放系で使うので、最もリスクの高い製品である。30cm以上離れるのがよい。電気毛布・電気カーペットは身体に密着して使うので、電源を入れたまま長時間使うことを避け、寝る前に温めて、寝る時にはコンセントから抜くことをお勧めする。電磁波先進国スウェーデンが安全基準としてパソコン画面から距離30cm、2mG以下にしているのが安全に関する一つの目安である。同国は高圧線の影響にも2〜3mGを基準に対策を行っている。なお、同国のSalfordらの電磁波の健康影響ありとする論文がこの方面に大きな影響を与えている。
 リスクが不明瞭である場合はリスク分析(リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションなど)が重要となるが、これはあらゆる環境問題に通じる話である。上記の特集でも扱われている。
 電磁波は気になるが、最初に述べたように携帯電話の普及と世相の悪化が比例していて、若い頃から電磁波が出るものを直接耳に当てるのは脳によくないという、科学者らしくない感情から、電磁波に興味を持つに至った。そう言いながらパソコンには絶えず向かっている。どうせ長くない命だ。
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080317 電磁波−2 携帯は大丈夫か
 
電子レンジからの電磁波で白内障になる危険性があると騒がれたことがある。マイクロ波の人体影響として、がん発症率上昇、頭痛、発熱、めまい、睡眠や学習能力に悪影響などが懸念されているが、科学的根拠はないと言われていた。そのあたりの様子が分かるかもしれないと思って、上述の特集号に目を通した。専門的な部分が多く8論文に亘るものだから、興味をお持ちの方は直接特集を読んでいただければいいが、小生が興味のある部分で、読み取れた所を書くと以下の通りである。
 超低周波電磁界、例えば、送電線などの影響は、「ヒトに対する発がん性があるかもしれない」ということを否定していないが、小児白血病に関連する証拠は因果関係とみなせるほど強くない。小児白血病のリスクを高めるとしても、公衆衛生上の影響は限定的である。小児白血病以外の健康影響は、さらに弱いと見てよい。高レベルの電磁界への短期的暴露については、健康への悪影響が科学的に確立されているので、ガイドラン設定が必要である。
 携帯電話の影響については、聴神経鞘腫、神経膠腫、髄膜腫に関して13カ国が参加して疫学的調査が行われた。10年以上前からの長期使用者に限って携帯電話使用と同側のリスクで見た場合、聴神経鞘腫と神経膠腫でリスクが増加したという報告がある。しかし、神経膠腫では反対側の相対リスクはむしろ小さいのでリコール・バイアスの影響が示唆され、現時点では神経膠腫については長期使用者でリスクが増加するかどうかは、現時点では判断できない。いずれの腫瘍についても、リスクの有無を判断するのは時期尚早とのことである。
 要するに、携帯電話から出る電磁波の健康影響はまだよくわからないということである。リスクが全くないとは言えないというのを、重く受け止めるべきか、あるいは安心してよいかは即断できる段階ではなさそうである。携帯電話の普及年月がまだ浅いから、10年以上という区切りを、これからは20年、30年のようにもっと長い年月をとって判断すべきと思う。
 小生は骨の激痛で入院したした時、X線、核磁気共鳴画像(MRI)、骨シンチグラフィー、CTスキャンなど電磁波を受けるいろいろな検査を受けた。MRIでは強度600,000~3,000,000μTの電磁波を浴びることになる。自然界の10万倍である。これはWHOのガイドラインよりはるかに高い。賞味期限が切れた食品を避ける程度の話ではない。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際に立てば、少々のリスクなんて怖くない。どちらのリスクを選択するかのトレード・オフの問題である。われわれはこのようなトレード・オフを、無意識のうちに行っていることが多い。
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080313 食の安全性5-国産品は安全か
 安い餃子を売るためには中国で作ることが欠かせなかった。その製品に問題が起きた。さてどうするか。
 今は、ダンボール肉まんのような情報もあり、中国製品は危険だから買うのをやめようと思っている人が多いのは確かである。価格が高くても国産のものを買えば、自給率を高めるのに貢献するが、食料全般については、とてもでないが今すぐ自給率を高めことが出来る状況にはない。
 特定の製品だけについては、安全性を表に出して交渉すれば、相手国の説得が比較的容易に運ぶ可能性がある。あの外圧の代表国である米国に対する狂牛病に関連したBSE対策に、その例が見られる。どちらかと言えば感情的なまでの安全性を主張して、牛肉輸入に関してわが国の意見を今のところ押し通している。しかし、相手国にも輸出によって利益を得たいたという事情がある。いつまでも安い単価で製造できるわけではないが、国内産と価格が対等になるまでは単純に輸入を阻止できない。といって、自給率がこのままでいいとはとてもいえないから、農業を元気付ける対策を採りつつ、徐々に自給率を高める必要がある。
 ただ、食の安全性を高めるということに関しては、わが国のものがそれほど安全かという問題がある。自給率が高まれば高まるほど、今度は国内産の食料から危険なものが増加する可能性があることは、最近の偽装事件が示している。わが国に悪人は少ないとは言えないのは、最近の世相を見ればわかる。
 現代の農業は農産物の移動を伴う。肥料や農薬を使用することのほかに、農産物として物質が移動するということは、移動にエネルギーがいるということと物質の分布が変わることである。食品の炭素成分は大部分が二酸化炭素となり、気散する。しかし、気散しない成分は消費地点に止まる。廃棄物の問題と直結するが、それだけでは片付かない。食生活とは異なった観点の考察が必要であることを指摘しておきたい。
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080312 食の安全性4-限界集落 
 
食料自給率の低下は、若者の農村離れを加速し、結果的に、限界集落が全国的に多発するようになった。限界集落とは、55歳以上の人口比が50%以上になるほどの高齢化が進み、共同体の機能維持が限界に達している集落のことである。
国際的価格競争に敗れて、農・林業で生計を立てるのが困難になれば当然のこと、農地を放棄して都市に流れる人口は増える。農地は荒れる。森林は手が入らなくなり荒廃し、土砂崩れがおきやすくなる。いったん荒れた農地の回復には手間と時間がかかる。
 小生が小学生の頃、戦時下ですべてを自給しなければならなくなり、校庭や道路を耕し、芋、とうもろこし、ひまわりなどを植えたものである。カチンカチンに固い土を鶴嘴と鍬で耕した。先生の命令で一生懸命にやったが、たいした収穫はなかった。肥料を取るために、当時主要な運搬の動力源であった馬車の馬と一緒に歩いて脱糞するのを待ったものである。
 食料自給率の低下は、多くの人が自然から遠のくため、環境破壊を招く。自然と離れる度合いが高くなるにしたがって、人々の心は荒漠たるものになる。安全な国と言われる状態から遠のきつつある現状は、自由経済下において価格は自然と安いところに収まるという行き方に一因があると思えてならない。資本は海外に逃げ、労賃を安くし、さらにリストラである。企業は労働力を求めていっせいに中国に工場をシフトさせた。中国の労賃がいつまでも安いわけではない。そのときには国内に戻るということが簡単に出来るものではないことは、農業の場合と同じである。
 食品の輸入を考えるとき、仮想投入水量の問題がある。食材ももともとは生物であるから、食材になるまでに水を多量に消費している。それらが食材になるまでの水はその土地のものを利用している。だから食品の輸入は食材そのもののほかに、水を輸入したに等しい影響を現地に与えていることになる。水が一緒に運ばれるわけではなく、水は循環しているから、特に問題視する必要もないという意見もある。
 しかし、その国の水循環に影響を与え、取水、配水、浄化、製品洗浄、排水処理などの水利用システムの管理が必要である。それらは料金に反映されるかもしれないが、中国の農業を見ればわかるように、もともと農業用水が潤沢ではない。それなりの迷惑を当該国に掛けていることに、心を留める必要がある。
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080310 電磁波−1 電気に弱い
 小生は電気系の話は苦手である。電気はすごい力を発揮するが目に見えないので、どうも実感として捉えにくい。酸化還元電位ぐらいの話なら追いつくが、それ以上の事になるとさっぱりわからない。もっとも化学でも分子や原子は目に見えない。水は酸素と水素が結合したものと言っても、それらの原子はもちろん水の一つの分子も見ることができない。目に見えないものでも話の筋が通っていると理解できる。と言うことは、電気系の話が苦手というのは、単に勉強不足と言ってよい。
 数学もそんなに得意ではないが、数学は「考えを式で表すもので一種の芸術である」と勝手に理解してから、案外すんなりと理解できるようになった。もちろんピカソ張りの難解なものになるとさっぱりわからない。訳本「水の微生物リスクとその評価」「水系感染症リスクのアセスメントとマネジメント」を監訳した時には、習ったことのない統計、確率に関するちょっと難しい式を、本を買って勉強した。訳文がチェックできる程度には理解した。数学はやはり芸術で、式が美しくなければならないと思った。
 ところで、国立保健医療科学院から「保健医療科学第56巻第4号」が届いた。電磁界と健康に関する特集号である。電気には弱いが電磁波の影響には興味があったので、早速目を通してみた。携帯電話が果たして安全なのか気になっていたからである。オーストラリアでは、人口密度が低くて連絡を取るのに無線などの機器が使われ、その人体影響が懸念されているという記事を読んだことがある。全く科学的根拠はないが、最近の"すぐ切れる"という世相は携帯電話が影響しているのではないかと、勝手に勘ぐっていた。
 自然界でも電磁波と呼ばれる電磁エネルギーは存在している。人が電気エネルギーを扱う以前に、地球は25μT(マイクロ・ステラ)〜65μTの静磁界を有している。さらに、電気や電波を利用しているので、誰でも電磁波の影響を受けている。そのことに無頓着で利用する事だけを考える人が多い反面、その影響に敏感な人もいる。例えば、高圧線の近くにで生活するする人々が電力会社に善処を求めるということが記事になることがある。
 電磁波とはなにか。電気と磁気の両方の性質を持っている「波」の事である。小生はこの辺からもうぴんと来なくなるが、そのようなものかと納得しよう。電気の影響が及ぶ範囲を「電場」、磁気の影響が及ぶ範囲を「磁場」と言い、両者が影響しあって電磁波の「波」がつくられるという。波の進むスピードは一定であるが、1秒間にいくつの波を描くと言う周波数が多いもの(波長が短い:高周波)と少ないもの(波長が長い:低周波)がある。
 波長が短いものから順に大別すると、電離放射線(x線やガンマ線)、紫外線、可視光線、赤外線、電波(テレビ、ラジオ、パソコン、携帯電話から発する電磁波)となるが、電波のうち携帯電話、電子レンジ、テレビは周波数の高い「マイクロ波」、高圧送電線は周波数の低い「低周波」である。われわれに馴染みの深い電気関係の設備・器具から電磁波が漏えいすることは確かである。それが健康に影響するかが問題である。↑ページトップ

080307 朝青龍の土俵入り
 
3月4日朝、K'sプランニングの金子さんから「今日天神さんで朝青龍の土俵入りがある」との電話をもらった。今、評判の悪い力士だし、小生もこのコラムで叩いたので、ちょっと迷ったが、生の土俵入りが無料で見られるならと出掛けた。最初は朝青龍一人が和服姿で現れ、拝礼等の行事が行われた。それが終わって20分後ぐらい後に、呼出・秀男の拍子木とともに、立行司34代木村庄之介に導かれて、露払い高見盛、68代横綱朝青龍、太刀持ち朝赤龍が入場して来た。そして、拝殿前庭で雲竜型の土俵入りが行われた。
 迫力満点の土俵入りであった。美しかった。過去の横綱では、吉葉山や鏡里の土俵入りは美しかった。千代の富士の四股を踏む姿は、他を寄せ付けぬ脈動感があった。朝青龍も、足を上げた時は犬の小便を思い出したが、周囲を威圧する美しさがあった。周りの女性が"かっこいい"とか"きれい"とか言っていたのがよくわかる。品性を疑われる言動でヒール扱いにされているが、幕内優勝21回という実力は一旦裸になれば周囲の雑音を断ち切る力を持っている。
 一言で言えば貫禄がある。筋肉のしまりと肌つやがいい。いかにも力士と言った体型である。小生は目の前の椅子席に座ることができ、ちょうど顔も見える程度の横から見ることができた。柏手を打つ時の腰を落としてやや前傾姿勢になった姿勢は、両側にいる力士を圧倒している。小生は子供の頃から大相撲ファンであり、学生時代は格闘技をしていたので、多少は競技者の持つ雰囲気からその人の何かを読みとることはできると思っている。
引き上げる時、見学者に向かって微笑んだ。拍手が起きた。ここら当りは、品性を疑われ嫌われ者になっている割には、人気がある所以であろう。亀田にはない笑い顔である。
 知名人に合うと、それだけでその人を身近に感じ、フアンになるという心理になるものである。その手を使うのが選挙時の握手戦術である。見学者にそのような心理も働いたことは否定できないが、貫禄と迫力と美しさに惹かれたのも事実であり、「やっぱり彼を応援しようかな」とか「彼を応援しないと悪いな」という声が聞こえた。
 なぜ大阪の天神さんで奉納土俵入りが行われたかというと、3年前にお参りしたら大阪場所で優勝したことが原因らしいが、天神さんの祭神である菅原道真公の祖先は、垂仁天皇の命で当麻蹶速と相撲を取って勝ったといわれる能見宿禰であり、ここの天神さんにも祀ってあるとのことである。この大阪の天神さんで奉納横綱土俵入りが行われたのは、40代横綱東富士が行って以来59年ぶりとのことである。
 東富士は、東京都出身最初の横綱で、気風がよい人柄で知られている。そのためか、4人の横綱がいたのに大関の栃錦が連続優勝して横綱昇格案が持ち上がり、5人横綱になるかも知れないという事態になった時、自ら引退してしまった。優勝した時に車に乗ってパレードをするのが恒例になったが、それを最初にやった人である。その時は個人でやったが、今は協会行事である。引退後プロレスラーになったが、それほど強かったという印象はない。
 さてさて、すぐ大阪場所が始まるが、朝青龍を応援するかどうか迷っている。
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0080305 羽生棋士
 
2月26日放映のNHKプロフェッショナル仕事の流儀を観た。茂木健一郎がインタビュアーの連続もので、この日は将棋棋士の羽生善治であった。偶にしか観ない番組であるが、小生の好きな羽生がホストだったから最後まで観た。なぜ羽生棋士が好きかといえば、彼は飄々として偉ぶらないからである。
 その道の頂点に立つような人には「俺を知らない者はもぐりだ」と言わんばかりの尊大に振る舞う人が多い。彼にはそのような気配はない。彼は語学を習うためにNOVAに通ったとのことである。その時同じクラスの人が、前人未踏の7冠を達成した偉人とは誰も知らず、「同じクラスにいる羽生っていう人は将棋が強いんだって。そんな人を知っている?」と他人に聞いて、聞かれた人が吃驚したと言う話を聞いた。
 彼が好きなもう一つの理由は、彼のデーターベースにも使っているように彼が「玲瓏」という言葉が好きだからである。玲瓏という言葉、文字は年配者向きなのか、同窓会の名前に用いられたり、校歌で唱われたりする。茨木東高や仙台一高などの同窓会の名前になっている。実は、小生の母校「静岡高校」の校歌にも"八面玲瓏白雪の、清きは・・"とある。そのため玲瓏の言葉には一段と愛着があるのである。玲瓏とは透き通り、曇りのない様、あるいは麗しく照り輝くさまを表す言葉であり、"八面玲瓏たる富士の山"のごとく富士山と結びつけて使われることが多い。わが母校の歌詞も上述の前は"理想は高き富士の山"となっている。彼は埼玉県所沢の出身で東京都立高校を卒業しているから、富士山が見えるところで育っている。
 上記のテレビ番組で、「直感は経験で磨く」「才能とは、努力を継続できる力」「リスクなくして成長なし」「勝ち負けだけにこだわらず、生涯をかけ自分の将棋を極める」と言う彼の考え方が紹介されていた。直感的天才能力だけでなく、努力を重ねている事がわかる。彼の闘う姿からは、勝負にこだわるというより、求道者的な雰囲気を感じる。棋士であるからには勝負相手と向かい合うが、彼の対局場面は、世俗から離れて会心の作を求めている名陶工が土に向かうがごとき姿を連想させる。
 小生の好きな長山洋子の歌「たてがみ」は羽生の姿を唱ったものである。最近は寝癖姿でテレビに映ることはなくなった。彼が地方で対局がある時には、一人で出掛けその地の散歩を楽しむとのことである。東京の将棋会館における対局中の昼食は近くのゴルフ場の食堂で、サンドウィッチを約10分間で食べるとのことである。誰も群がっていないのがいい。
 棋士は一人だけで行動できる。目立ちたがる必要もなく、饒舌にしゃべる必要もない。羽生棋士は大阪府の橋下知事と見た目がよく似ている。しかし、後者のようにしゃべることを生業としていないのでないので、相手をやりこめようとする会話をしない。将棋盤面上の駒を見詰める目と孤独との闘いに真剣味のある人生を預ける勝負師の姿はいい。盤上の闘いには審判上の誤審はない。今度生まれる時には、もし才能が賦与されたなら、将棋でも囲碁でもいい、棋士になれたらいい。
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080303 環境技術サロン-2 油汚染
 
小生が土壌汚染を実感するのは、水道水の水源など水利用を通じてである。
 地下は目に見えないので、水の流れがわかりにくく、汚染の実態が把握しにくい。十数メートル離れた2つの井戸で水質が明らかに異なることがある。僅かな距離で地下水の流れが異なっていることを伺わせる。そのため、汚染された井戸水が発見されても、汚染源を把握するのが困難である。複数の工場で汚染物質を地下注入していたらどちらが汚染源か断定しにくい。単一の汚染源であっても、今は注入していないとか汚染源であることを証明しろと言われるとかなり手こずる。
 汚染された土壌区域を何らかの目的に利用するには、その土壌から有害成分を取り除かなくてはならない。そのまま利用を続ける場合も、汚染物を取り除かないと周辺の利用者に迷惑を掛ける場合もある。
 その場合、汚染土壌を取り除いて外部で処理する方法と原位置で有害物質を取り除く方法がある。前者の場合、土壌を取り除いた状態で利用を考える、別の新鮮土壌で埋め戻す、元にあった汚染土壌をきれいにしてから埋め戻すなど、その場所に適した方法が採られる。今回のサロンの話題は、原位置に置いて油を除去する方法の紹介であった。
 有害物質を除去する方法は物理・化学的方法と生物的方法がある。揮発しやすい物質については、空気などを送って空気中に気散させる方法もあるが、大気を汚染するので何らかの方法で吸着させるか分解させる。地下水が汚染された場合、曝気して汚染物質を気散させて取り除くことがある。その時に、水から除かれた物質をそのまま気散させるだけで済ます場合がある。しかし、水はきれいになっても、たとえ微量であっても大気を汚染することになる。水さえきれいになればいいと言うものではない。
 今回のサロンのテーマは油汚染に関するものであったが、表流水を水源する場合を含めて、水道水源の汚染に関する苦情の多くは油汚染である。表流水の場合は土壌汚染とは直接関係ない場合がほとんどであるが、油汚染の質の悪さは共通している。
 土壌中の有機汚染物質を取り除くのに微生物の分解力を利用する場合が多い。有機物は生物が作ったものであるから、それを生物作用を利用して元に戻すのは合理的である。バイオレメディエーション(微生物的環境修復技術)と言われるのがそれである。油も有機物であり、大昔の光合成産物であるから、土壌の油汚染に対して、まずバイオレメディエーションが検討さるべき方策である。その概観と適用例が提示された有意義なサロンであった。
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080229 環境技術サロン-1 土壌汚染
 
2月14日に油汚染土壌の原位置修復技術についての環境技術学会の環境技術サロンに出席した。演題と講師は「油汚染土壌のバイオレメディエーションの現状と課題」池道彦氏(大阪大学教授)、「油汚染土壌の浄化技術と原位置浄化措置事例」笹本譲氏(鴻池組部長)、「長野県病院サイト灯油汚染土壌のバイオスティミュレーションによる浄化事例」山田博子氏(コンティグ・アイ取締役)である。油で汚染された土壌を、土壌を運ばずに、そのままの場所において手を加えて浄化しようと事に関する技術の紹介である。
 地下水や土壌は目に見えないので、汚染対策が遅れ勝ちであった。土地の所有権が地下に及ぶとあって、工場などが汚水や廃棄物を自分の土地に注入したり、埋め立てた。そのため、地下水を汚染し、自分の土地以外のところから汚染物質が検出されるようになった。また、新たに土地を利用するときに、汚染された土壌が問題になるようなことがしばしば起きるようになってきた。
 1975年に東京の日本化学工業の敷地において、自社の職員住宅で鼻に孔が開く患者が出、それが自社が埋めた6価クロームが原因であった。農地でない土の汚染が注目され、6価のクロームが規制の対象となるきっかけとなった事件である。現在、農地でない土壌が大きな話題になっているものとして、東京都の築地卸売市場の移転先予定地における汚染問題がある。
 工場跡地に住宅ができるときに、その土地から重金属その他の有害物質が検出されて問題になることがときどき報道されている。このような事件で有名なのは、米国のラブキャナル事件(1978年)である。あの雄大なナイアガラ滝のすぐ近くである。滝からわかるような多量の水を利用して発電し、それを利用する工場を建設して、製品を運河で運ぶことを考えた。運河は掘ったのだが、送電技術の向上から電気は電線で送電し、工場は海岸地帯に建設したほうが便利で経済性が上がることから、運河が必要でなくなった。せっかく掘った運河をどうしようかということになった。当然考えられることは、そこに何かを放り込むことである。化学合成会社が目をつけてそこを産業廃棄物を埋め立てた。産業廃棄物はBHC、ベンゾクロライド、ダイオキシン、トリクロロエチレンなどの有毒物質を含むものであった。その埋め立てた跡地に住宅を建設した。
 ここまでは何事もなく進んだのであるが、時間の経過とともに跡地に建てた住宅の住民の発病率とくに婦人の流産や死産が異常に高いことがわかった。調査の結果、埋め立てた産業廃棄物に含まれている有毒物質を吸い込むのが原因とされた。婦人は地下室に保存してあるワインを取りに行くことが多いので、罹患率が高くなった。
 原因がわかった後の米国の対応は早く、全国のストック公害を点検し、通称スーパーファンド法と言われる包括的環境対処・補償責任法を制定した。これは責任範囲の明確化と浄化費用のための基金を設けるものである。その後改正されているが米国のみならず、世界的に影響を与えた法律である。
 公害と言えばわが国では水俣病やイタイイタイ病が挙げられ、ラブキャナル事件はあまりには知られていない。米国ではこのラブキャ事件のほうがよく知られている。10年ほど前に当地を訪れた時、あまり古傷を触られるのが嫌という感じであった。イメージと地価が下がるからである。どこの国でも同じといってよい。
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080227 食の安全性−3 不公平な自由化
 
国際的な議論が行われるとき、どうも気になるのは欧米追従になることである。欧米が言っていることが正しいと取る雰囲気は、以前より少なくなってきたが、まだまだその状態からは脱し切れていない。国連と言えばなんでもそれに右へ倣えをする。海外派兵についても、国連という文字が入れば承認するといった主張は、与党も野党もとっている。環境に関する行動規範になりつつあるISO関連条項も,有難がって認証を受けるところが多いが、何のことはない、欧米に釣られているようなものである。米の自由化においても、公平な貿易というよりも米国をはじめとする輸出国の押し付けに屈しただけではないか。
 こんな経験がある。ボトル水をさる国が日本へ売り込みたいが、日本では水道水では塩素処理、清涼飲料水では加熱しなければならない。しかし該当国はオゾン処理をしている。オゾン処理した水は安全だから日本が輸入してもいいはずだと言って、意見を求められた。非関税障壁の案件として訴える準備があると脅かされた。小生としては、オゾン処理で十分であるが、法的な障壁についての意見は、自分は行政官でないから言うことは出来ないと答えた。雑談の中で相手国は、日本が自国の流儀に従わないのはおかしいという意見であった。あくまでも、日本がおかしくて、自国が正しいと言う論調であった。
 水質分析でも、米国のStandard Methodsが最も権威のある方法になっているが、それをよいことに、ごり押ししてくる場合がある。濁度のように日本独自の方法があると、計器の売込みに支障があるとして、測定方法に文句を言うのである。このコラムの「中東の笛」で述べたように、ルールを自分の都合のいいように変更することは、欧米の採る常套手段である。それに対抗するために、わが国はアジアの国々など欧米以外の多くの国々と仲良くしなければならない。
 農業・林業に必要なものは、農地・森林、担い手、技術である。米国の小麦戦略や米の自由化に押し切られ、食料自給率は低下した。その結果、農地は荒れて、担い手は減り、技術の伝承が難しくなった。しかし、昨年の技能オリンピックでわが国は16職種で金を、5職種で銀、3種で銅を取った。技術を見直す機運が出てきたと思いたい。今の環境への関心の高まりから、農業・林業への担い手も増えてくることを期待したい。
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080226 食の安全性-2 食料自給率
 
今回の中国製餃子問題であらためて話題になったのは、わが国の食料自給率の低さである。エネルギーベースで約40%である。平地の少ないスイスでさえ60%である。わが国が景気のいいときに、食料は自分で作るより買えばいいとばかりに自給率を下げてきた。米(コメ)の自由化はWTO(世界貿易機関)の協定で取り決められたが、1999年にわが国は法整備した。当時、農家、農業団体などは自由化に大反対であったが、自由化の国際的流れに押し切られた。農協をはじめとして農業関係者が、自分らの利益のためにわがままを言っているというとらえ方であった。米を自由化しないと車などの輸出規制がかかって、国益を損なうと言う意見が圧倒的に多かった。
 食料自給率が下がっても、世界的な自由経済体制の中で、食料輸入に支障をきたすことはないという見解の論調をたくさん読んだ覚えがある。もしそうなら、食料に困ることは、少なくとも量的にはないはずである。当時の論評は中国などの発展途上国がまだGDPが低いままの状態を想定していたと思われる節がある。昨今の生産性の向上で自国の生活水準が高くなり、輸出に回す量が減ってくることは自然の成り行きである。
 わが国の農業に関する基本的な法律として、「食料・農業・農村基本法」というものがあり、そこに、第15条で食料自給率の目標,第19条で食料の安全保障がうたわれている。それに基づいた基本計画(平成17年3月25日閣議決定)では、平成27年度目標のカロリーベースの総合食糧自給率は45%、主食穀物自給率63%、飼料自給率35%となっている。こんな程度でいいのかとちょっと首を傾げたくなる。
 農産物輸出国の輸出量が減ればそれだけ農産物の価格が高くなる。バイオエネルギーの流行がそれに拍車を掛ける。作物が食用のものからアルコール用のものに転換するから、それだけ食料が減るからである。一方で、借金大国の工業生産量の鈍化により、金儲けも怪しくなってきた。食料を買い付けるゆとりがいつまで続くか疑問である。
 このような食料の量的問題点を、今回の冷凍餃子事件はわれわれ庶民がそろそろ真剣に考えるきっかけを与えてくれた。因みに、食品別の自給率(カロリー計算)の例を挙げると;豆腐29%、味噌30%、牛乳43%、パン1%、醤油0%、卵9%である。卵そのものを91%輸入しているというのではなく、卵を生む鶏の餌がその程度輸入されていると言うことである。卵そのものは90%以上が国産である。
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080222 食の安全性-1 いつか来た道

 中国餃子が問題になっている。食の安全性はわれわれが毎日食べる物に関することであるから、永遠のテーマである。今回の問題は、原因の追及のほかにいろいろの側面を含む。
 まず、中国だけの問題かということである。米国では中国製のものを含まない商品を探すということから、チャイナフリーという言葉が一般化しているとのことである。わが国でも中国の文字のある食品は極度に嫌われる傾向にある。しかし最近のいろいろな偽装事件における、死者こそ出ていないが金儲けのためには何でもするというせこさは、わが国でも見られる。今回の事件は犯罪である可能性もあるが、わが国にも似たような事件はあった。
 まず挙げられるのが、1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件である。稲尾投手が西鉄ライオンズに入団が決まった年であるが、乳児用の粉ミルクが急激に買われ始めた時であった。その背景には、女性の社会進出と「粉ミルクは母乳より乳児に良い」という宣伝に多くの人が釣られたことがある。爆発的に売れ出したので牛乳の生産が追いつかず、無理やり牛からの搾乳が行われ、牛乳が酸性化してきた。それを避けるために第二燐酸ソーダを添加したが、安価な工業用のものを使用した。その中に亜砒酸が含まれていたのである。
 収益を上げるために安全性を犠牲にした典型例である。その結果1万2千人以上の患者が発生し、130名ほどの死亡者を出てしまった。今だったら、たとえ森永のような大会社であっても倒産の憂き目にあうことであろう。当時はまだ食の安全性に関する法的整備と世論の力が弱かったし、マスメディアの取り上げ方も弱かった。そのため、まだ補償は続いているが、大方の人には忘れられた過去の事件である。
 1968年にはカネミ油症事件が起きている。これは工程管理の欠陥から、天ぷら油に使う油がPCBで汚染された事によって起きた。原因物質はPCBに含まれていたダイオキシン類によるものとされている。意識した犯罪行為ではなかったが、1万4千人ほどが不調を訴えた。が、認定患者は約1900人と少ない。しかし、これは、レイチェル・カーソンが名著『沈黙の春』で有機塩素化合物による環境汚染の怖さについて警告したことを、汚染された食品摂取で示した事件であった。
 1984年には、意図的な犯罪として行われたグリコ・森永事件があった。青酸カリを含む製品をコンビニに置いて、食品会社を脅迫した事件である。犯人が「かい人21面相」とふざけた名前を使ったことでも知られている。青酸カリ混入製品を置いたと宣告して、実際にそれが見つかった。消費者が店頭に並ぶ商品に極度に神経質になった。この事件によって、商品の外装にいろいろと工夫がなされるようになった。この事件では犯人があらかじめ予告したこともあり、そして終結宣言の後には実際にそのような商品が見つからなくなったので、現実に健康被害を受けた人は出なかった。犯人は見つからず時効になった。
 いろいろな事件を経験しながら、わが国の食品の安全性は高まってきた。しかし絶対の安全ということはありえない。悪さをしようと思えばいくらでもできる。食品に病原体を混ぜるのは昔から行われている。その犯人探しは難しい。1966年に千葉大学付属病院と静岡県にある社会保険三島病院で、集団赤痢と腸チフスが起きた事件がある。さる医師が効果を確かめるために病原体をカステラなどに付けたとして逮捕された。懲役6年の判決を受けたが、この事件は冤罪であったとする意見が有力である。カステラのような糖分含有量の多いものの中で、病原体が増殖するかは疑わしいが、いろいろな食品で中毒が起きることから、食品を汚染して犯罪に利用する不届者が出て来る可能性は、わが国でも常にある。↑ページトップ


080219 中東の笛(4)−応援もほどほどに
 ハンドボールの再試合でもそうであったが、国内のサッカーの試合でも、自チームのサポーターが同じ色のシャツを着て、同じ動きの応援するのが一般化してきた。小生の嫌いな光景である。応援というより一種の圧力であり、偏った審判と似たり寄ったりに見える。
 スポーツ観戦ではどちらかに応援したくなる。一般に地元のチームや個人を応援したくなるが、関西の人が全てタイガースのファンではない。日本のチームや個人が対戦する国際試合において、他国の方を応援することがあってもいいはずである。小生にはよくあることである。
 もともとスポーツは国別対抗でやるべきではないと思っている。スポーツは楽しむものである。国粋主義的に競うという邪道なスポーツ観戦が、マスメディアに煽られて一般化してきたのはよくない。そのことが審判の判定やルールに影響している。
 自分の組織のチーム(個人でも)に応援するのは当たり前であるが、程度というものがある。その点、高校野球の甲子園大会はいい。アルプススタンドという一定の範囲に、両者に対して等しいスペースを与え、お互いの応援もルールに沿った応援合戦になっている(勝手に応援しているのではない)。応援に来る一般客は普通に応援するだけで、とくに揃った行動は取らない。
 案外一般の人は、甲子園の高校野球の応援のルールを知っていない人が多いのではなかろうか。小生は幸いにして母校が春・夏含めて数回出場したので、応援に行った。母校がそれほど好きかと訪われると返答に困るが、自分の育った故郷の匂いを運んできてくれると思うと血が騒ぐ。甲子園で聞く母校の校歌はいいものだ。
 サッカーその他のプロスポーツで、いつの間にやらユニホームを揃って着て、贔屓のチームばかりを応援するのが一般化してきた。フーリガンはよその国の話と思っていたが、だんだん他人事ではなくなってきたような気がする。もう少し相手チームを思いやる応援のルール作りが必要と思うが。
 勝ち負けを争う場合はどうしても勝ちたくなる。スポーツもその例外ではない。それが高じるとさらには喧嘩にまで行き着く。国際試合では、さらに政治問題にまで発展(?)する可能性がある。中東の笛の響きが石油問題にまで届かないことを祈る
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080217 中東の笛(3)-ルールを変える
 審判の偏った判定の他に、どうしても勝ちたいために行われるもう一つの方法は、ルールを変えることである。スポーツはルールに従ってやる競技であるが、ルールそのものを自分らに都合のよいように変えると、競技者はちょっと反対できない。同じルールの下で競技をするのだから、不公平はないという見方があるが、そう単純ではない。水泳の古川選手が潜水泳法で圧倒的強さを示したら、すぐ潜水泳法にブレーキが掛かった。長野オリンピックで笠井選手ら日本人がジャンプで大活躍したら、スキー板の長さを身長を基本とするように変更になった。身長の低い日本人は跳ぶ前から不利になった。
 スキーの複合競技であるノルディックスキー・コンバインドはクロスカントリーとジャンプの競技の合計点で競うが、この競技でも同様なことが行われている。アルビールビルとルリハンメルのオリンピックやワールドカップで、荻原選手らが金メダルを獲得するなど大活躍した。体力に劣る日本人は先に行われるジャンプで点を稼ぎ、逃げ切るというパターンでメダルを得ていた。しかし、北欧から見れば雪があるかどうかわからないような東洋の島国、そこの小さい人間が、メダルを取るのが気にくわないと見えて、距離重視のルールに幾度も改正して現在に至っている。その目的が効を奏してか、日本人は未だに苦戦を強いられている。オスロのホテルに泊まった時、歴代のノルディックスキーのメダリストの写真などがでかでかと飾ってあった。ノルディックスキーの本場であることがよくわかった。オスロはノーベル賞の平和賞が授与される場所である。平和の具現化に貢献しているこの国でさえ、スポーツともなると我田引水に走るようである。
 偏った審判と自国有利なルール改正とどちらがタチが悪いであろうか。
 前者の場合は、ルールは公平のもとでの試合だから、不利なチームはその場において「そんなはずはない」と試合にやりきれなさを感じる。後者の場合は、ルールが歪になったもので、公平の審判のもとで行われる。練習の段階から改正されたルールに沿って努力がなされる。しかし、DNAや歴史・文化まで内在したルール変更だから、それに対処できる範囲には限界がある。要するに、試合に勝つという観点からのタチの悪さの程度は同じである。ということで、中東の笛も世界的に見れば異常とは言えない。審判を味方に付けるか自国に有利にルール改正することが、国際試合の裏側で、各国の政治力を使って蠢いていると見るのがいいのかも知れない。↑ページトップ
080215 中東の笛(2)-誤審は付き物
 無意識的誤審で有名なのは、1986年におけるサッカーW杯メキシコ大会・準々決勝・アルゼンチン対イングランド戦におけるマラドーナの「神の手」ゴールである。神の手とはマラドーナ自らが「私のヘディングと神の手がゴールを決めた」言った言葉からきている。最近本人が英新聞紙サンで謝罪している。
中立的判定をしてもきわどい場合は、負けた方が審判の誤審と取りやすい。シドニーオリンピックの時、柔道の100kg超級決勝で篠原選手とフランスのドゥイエの判定で揉めた。
 日本人はひいき目に見るから篠原の内股透かしが決まったと判断するし、フランス側は内股が決まったと思う。小生はあの場面を見た瞬間、ドゥイエに有利と思った。後で国際連盟が、審判がポイントをドゥイエに与えたのは間違いであったと認めた。篠原の技を認めたのではない。透かし技はもっと明確に決まらないと、柔道の歴史の短い国々の人には理解されないと思った。小生は柔道をやっていた頃は、内股透かしを得意技の1つとしていた。返し技は、いかにも完全に自分が積極的に掛けたように、相手を背中から飛ばさないと思い違いされやすい紛らわしい技である。
 巴投げも国際試合では間違って取られやすい技である。自分から背中をついて飛ばしても、小内刈りなどで倒されたと取られやすい。巴投げを掛けられて決められそうになった時は、かけ声を掛けていかにも自分が倒したようにごまかせと教わったほどである。今の国際試合の柔道は、どちらかといえば剛道である。洗練された見えにくい技は流行らない。要するに、篠原選手が負けたのは審判が悪いのではない。彼はすぐ寝技で押さえ込むべきであった。勝ったと思って一瞬手を抜いたのはよくなかった。↑ページトップ
080214 中東の笛(1)-中立的審判は難しい
 スポーツに審判は付き物である。あるルールの下に勝ち負けを競うのがスポーツだから、ルールが守られているかを判断し、試合結果を判定する者が要る。競技というものは元来、公平でなければ成り立たない。しかし、人間がやることだからなかなかそうは行かない。タイムを競う競技でも、時間は計器が正確に測定するが、フライングの判定、コース妨害など人が判断するケースが出てくる。
 人の判断が関与するもっとも顕著なのは野球であろう。主審は一球ごとに判定を下さなくてはならない。しかも、100キロメートル/h以上のスピードの球の軌跡を一瞬にして判断することを要求される。判定する範囲はルールで決まっていても、正確に測定して決めるのではなくて、審判の一瞬の勘に頼って決める。塁審の判定もそうである。だから時に判定された者との食い違いが出てきてもめたりする。審判の主観による曖昧な判定の多さから観て、野球がスポーツとしてやっていけるのは、不思議な気もする。
 取っ組み合いをする勝負の中で、審判の点から公平性の高いのは大相撲である。行司がいて一次裁定をし、疑問がある時は5人の勝負審判が話し合い、多数決で決める。しかもビデオを参考にする。その上その場で公表する。他にこんなことをしている競技はない。フィギュアースケートでは10人の採点者が関与するようになったが、この場合は勝負の判定でなく形の判定であるので、美術の判定と同じく一層判定者によるブレが出て問題が起きる。
 審判の主観が入るのは仕方ないとして、その主観の中立的判定が狂うのは、神でない人間のやることで仕方ないが、競技の片方側に思い入れが入っている場合が問題である。選手宣誓で「スポーツ精神に則り、正々堂々と戦います」というのは、審判が中立であり、公平な立場で競技場の上に立つことが出来ることが前提である。今回のハンドボールの「中東の笛」はその前提に反するもので、スポーツが成り立たない条件を与えている。しかし、国際試合でこのようなことはよく見られる。野球のWBCにおけるアメリカの審判がそうであった。昨年9月女子レスリングの世界選手権における浜口京子の判定もそれに近い。日本人はスポーツに対しては公平性を求める度合いが、100%とは言わないが、強い国民と思う。だから大相撲のような審判形態を取るようになったと思う。

も く じ
080331 久しぶりの名古屋-1
080328 久しぶりの岐阜
080326 チキンレース
080321 日本の、これから:学力
080319 再び参議院無用論
080318 電磁波-3
080317 電磁波-2
080313 食の安全性-5
080312 食の安全性-4
080310 電磁波-1
080307 朝青龍の土俵入り
080305 羽生棋士
080303 環境技術サロン-2
080229 環境技術サロン-1
080227 食の安全性-3
080226 食の安全性-2
080222 食の安全性-1
080219 中東の笛(4)
080217 中東の笛(3)
080215 中東の笛(2)
080214 
中東の笛(1)