081001 須磨・舞子から 淡路島へ
 
9月12日に淡路島へ技術的見学をする機会があった。淡路島は温暖でいい島というイメージはあるが、関西の人は近すぎて案外行っていないようである。小生は摂南大学時代に教育懇談会という父母会みたいな会合に出席するために、何度か四国に行った。その時、船で大阪から淡路島の洲本や津名に渡って、そこからバスで四国に行ったことが数回ある。
 しかし、単に通過するだけでどこにも寄っていない。今回も宿泊はしなかったが淡路島の雰囲気はたっぷり味わうことはできた。島に入ってみると400m以上の山がいくつか在って、島にいることを忘れる。本州等四島を除けばわが国7番目の大きさの島である。順で言えば、択捉、国後、沖縄、佐渡、奄美大島、対馬の次である。琵琶湖は対馬とほぼ同じ面積である。
  「淡路島 通う千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守(源 兼昌)」、百人一首にある小生の好きな歌である。須磨の海岸が好きだからである。大学4年生の時、生まれて初めて学会(動物学会)の学術発表会に出席するために九州大学に行った。その途中、列車から眺めた須磨・舞子の海岸の景色に魅せられた。大学を出て関西に住むようになった時、すぐに須磨海岸に行った。やはり、自分好みの海岸であった。その後、しばしば行く機会があったが、最近は砂流出を防ぐための堤防ができたので、やや景観が損なわれている。舞子辺りはその堤防 はなく、明石大橋が人工美を添えて景観を引き立てている。
 前々から一度ゆっくり淡路島に行ってみたいと思っていた。古事記や日本書紀にも出ている古い歴史のある島であるが、小生の知っているのは1995年の阪神・淡路大震災の他は、1870年の庚午事変(こうごじへん:稲田騒動)ぐらいである。この事変は船山薫の小説「お登勢」あるいはそれをNHKがドラマ化したもので知られている。
 もともと淡路島は徳島藩に属していたが、洲本城代家老稲田家(1万4千石)が本藩と確執があり、幕末に両者が尊皇派と佐幕派に別れた。徳島藩と分かれて独立したがっている稲田側を本藩が怒って襲撃した。これが幸いして勤王派の稲田側は独立が認められると思ったところが、当時の混乱した政治情勢からそう上手くは行かず、洲本を含む津名郡は兵庫県に編入され、稲田側は北海道静内と色丹島に飛ばされたという事件である。
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080929 学力ランク付けの意味
 
大阪の知事は、教育委員会に全国学力テストの結果を公表するように迫った。さらには公表しないところへの予算を削るという脅迫的行動に出ようとした。このことは撤回された。このように政治の思惑が教育に直接影響するのは良くないので、法律によって教育委員会が首長とは別に設けられることになった経緯がある。公表拒否の善悪は別として、知事の意向が教育現場に直接影響しないようにする配慮が、今回は生かされたことになる。未だ、その意向は生きているようだが。
 大阪府の全国学力テストの結果が、府県別ランクが最下位レベルであることを橋下知事は相当気にしているようである。政治家としてなんとか学力を高めることを考えることは当然である。しかし、ランクが低いことが将来の役に立つことへの障害になっているかどうかを考える必要がある。
 ランク付けすればどこかが最下位になる。最下位と最高位の差に意味があるようなテストかどうかをまず検討する必要がある。秋田県が連続トップとのことであるが、秋田県から「やっぱりトップの県で教育を受けた人である」というほどの人材が、他県を圧するほど輩出しているのか。受験戦争に勝つだけのテストなら余計に気にすることはない。テストの公表に気を使うより、テストの内容と意味を吟味したほうが良い。「クソ教育委員会」発言は、ちょっと下品ではあるが。それほど取り立てて騒ぐことではない。
 上述のように橋下知事の出過ぎた行動でもあるにもかかわらず、府民の多くは知事に好意的である。第二次世界大戦当時の日独伊の恐怖政治のことはもう忘れ去られているのかもしれない。
 不思議なのは、マスメディアに出てくるコメンテーターの大半が好意的であることである。大衆におもねっているのか、隠し取りのような陰湿な行為まで認めているようである。盗写や隠し撮りのような陰湿な事を最も忌み嫌う筈のマスメディアと評論家・コメンテーターのほとんどがあまり事の善悪を正していない点は不思議である。皆、マスメディアお仲間といった感じである。仲間意識で何が評論家と言いたい。朝日放送の早朝番組「おはようコールABC」に時々出演する「やまけん」こと山本健二氏だけがはっきり批判していた。彼の発言はいつも共感する点が多い。数少ない批判内容の充実したキツイ発言をするコメンテーターである。
 また、橋下知事は、東京世田谷区の夜スペの発案校長を招聘した。下流大学に振り回されている現在の教育に、学力向上の意味を取り違えて塾を立ち上げた人に期待するようなセンスでは、我が国の将来は明るくない。
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080925 恐怖政治の翳り

 
今回の大阪府のように人事管理や組織管理のために、事務室や一般人が出入りする処を隠し撮りすることは異常である。隠し取り自体が陰湿である。
 盗写によって、ゲームに興じているとか鼾をかいて寝ているとかのように明らかなサボリは分かるかもしれないが、手が止まっていても考え事をしているかもしれないし、笑っていても仕事上の打ち合わせかもしれない。考え事をしているのをサボっていると取られたりしたらたまったものではない。
 映像は悪意をもって撮影したり編集したりできるのである。そのことは一般人よりマスコミやタレントがよく知っているはずである。
 府から手放そうと自分が考えている施設を狙い撃ちして、あら探しをしているとしか思えない。隠し取りが効果あるなら全施設、全事務室に対して行わなければ不公平である。でも、そうすればどこかの国のような恐慌政治になってしまう。
 数年前にある高校で、生徒の態度を把握するために校内にカメラを設置した。隠し取りではない。当時は自分も授業中の学生の私語に悩まされて、教育上その程度のことは認められるのではないかと思ったものである。しかし、マスコミや世論に押されてカメラは外された。これなども、犯罪者でないものにカメラを向けることは穏やかでないことを示している。
 橋下知事は、自分は選挙で選ばれたから、自分の考えたことはすべて府民の意向に還元できると思って、何をやっても良いと思っている節がある。ヒットラーがそうであった。ヒットラーは金正日のように権力を握ったと思っている人が多いが、そうではない。国民の圧倒的な人気を把握した上で、自分の意見に従わないのは敵だという独裁政治に走ったのである。
 人気を得れば、自分の思うことは全て国民の意思に沿ったものと都合よく解釈し、自分の意に反する者を排除することを正当視する。恐怖政治の始まりである。
 教育委員会における盗聴機設置も、もしかしたら知事の意向であったかと誤解されたが、そのように思われるような行動することを慎まなければいけない。↑ページトップ

080922 隠し撮り
 
このコラムでは特定個人を批判することを極力避けているが、時に、名前を挙げないと意味を成さない場合は、意に反して出さざるを得ない。大阪府の橋下知事が選挙で圧倒的多数の票を得て当選したことを背景に、思い切ったことをやっているのは多くの点で評価できる。しかし、自分のやることは何でも府民の考えを代表していると勘違いしている面がときどき見られる。
 大阪府立国際児童文学館で盗写が行われた。知事の意向によったものだそうである。知事はそれを見て、同館は存続に値する内容ではないと言っていた。この件は、隠し撮りをしたこと、それについて意見を言ったことに分けて考えることができる。
 レンズを他人に向けることに対する感覚の違いが、庶民とタレント・政治家など他人の人気を当てにする人達との間に違いがある。小生は景色や記念写真を撮っている他人のカメラが自分の方向に向いていると、それが偶然であっても、非常に不快になる。エスカレーターや便所で女性の下半身を盗写したりするのは明らかに犯罪であるが、許可も得ずに他人にレンズを向けるのはその延長線にある不愉快な行為であると思っている。
 海岸で水着姿の女性を許可なく盗写する事件がよくない行為として時々話題になる。これなどは、許可なくレンズを向けること自体が被写体の人権を侵すことになるということを示している。黙ってカメラを向けると、魂が吸い取られると言ってすごく怒る国や地域もある。
 しかし、レンズを積極的に意識して生活する職業の人もいる。橋下知事はタレント出身で、レンズを向けられる時の感覚が一般庶民と違っている。隠し取りをそれほど陰湿な行為と受け取っていないようである。
 その証拠に、事件発覚後に「そんなことは民間では普通なこと」と言っていた。しかしそんな陰湿なことは民間でも普通ではない。ロッカーや執務室で盗難が多いとか、不審者が出入りするようであるといった時に、犯人探しのためにカメラを設置することはある。交通状態や違反者をチェックするため公道にカメラを設置することも一般化してきた。が、それはプライバシーより治安維持・公共の安全が優先する場合だけである。
 橋下知事は「民間なら・・」ということをよく言う。問答無用にするための、彼が多用するレトリックである。国民をごまかすうまい手ではある。
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080921 わが国は先進国
 
福田首相が突然に総理大臣を辞任すると言い出した。その結果、後継総裁立候補について大騒ぎになった。その騒ぎの内容は、誰が立候補するかと言うことに焦点が当てられて、今の内外の国際情勢との関係についてはあまり触れられていない。
 国民も大半は「だれが総理になっても大して変わらない」と思っているようである。実際そうであろう。一方、米国の大統領選の選挙運動はお祭り騒ぎである。多分どちらが選ばれるかによって、国際的にはもちろん国内の政治が相当影響を受けることが予想される。
 米国だけでなく多くの外国では、トップが変わればその国の政治が相当に影響を受ける。わが国は誰が首相になっても、例え民主党が政権を取ってもそれほど変わらないと、大半の国民は思っている。
 それは、良くも悪くも官僚の支えがしっかりしているからである。官僚の影響を排除する必要性が盛んに言われるが、政治家のほうがしっかりしていないので、結局は文句を言いながらも官僚に抱っこせざるをいない現状である。
 わが国が手本としてきた米国はどうか。共和党の大会を見ると、お祭り騒ぎはいいとして、副大統領候補に若手の女性を担いで目先を変えようとしている。そのこと自体は政治の内容でなく、単にサプライズ的演出である。さらに家族全員を登壇させ、未成年者の妊娠を出汁に使っている。
 行おうとしている政治の内容より、熱狂するような雰囲気を作ることに苦心し、その演出に国民を引きずり込むのが党大会のようである。ポップスのコンサートのように熱狂的に振舞う大衆の歓声に包まれる大会は、阿波踊りやリオのカーニバルとあまり変わらない。
 熱狂する二派に分かれるので、トップが替われば相手を蹴落とすがごとくに政治が変わる。
二つに分かれて競うのは野球やサッカーのようなスポーツに見られる。観衆は二派に分かれて応援し、高ずれば乱闘になり血が流れる。政治も二者択一という点でスポーツ化してきた。小選挙区制はそれを願った体制である。米国の二大政党制がいいと思っての選挙制度である。小生は反対である。あんなばか騒ぎして大統領候補を選ぶ国の体制を見習う必要は毛頭ない。
 多数の意見が捏ね回されてある合意に達するのが本当の民主主義である。二派に分かれるのはよくない。少数意見を問答無用で無視するのはよくない。生態系の多様性と同じく、多様性があるとちょっとした変化で状況は変わらない。このような状況がいいのである。
 下らない小選挙区制にしたために、議員は常に選挙のことばかり考えていて、いい政治をする余裕がない。官僚の支えがなければこの国はめちゃくちゃになる。首相が辞任することになっても、芸能ニュース的に取り扱われて、誰がその跡を継ぐのかということだけに興味があるかのごとく報じられている。平和である。
 首相が政権を放り投げても、デモ隊の衝突が起きたり非常事態宣言が出されるわけではない。国民はガソリンの値段や全日本の野球監督選考のほうに興味がある。首脳が変わっただけで政治があまりぶれないという点でわが国は先進国である。
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080917 瑠璃の光も磨きから 
 
素人が出るクイズ番組で、相当な難問を当てる出演者がいる一方で、タレントといわれるテレビ番組で、こんなことも知らないかという出演者がいる。だから番組が面白いかもしれないが、そんなことも知らないことが当然のことと是認される雰囲気を作ることはよくない。一億総白痴化にテレビは貢献する必要はない。
 単語、諺などを本来の意味と取り違えている人が多いという。よく例に挙げられるのに、「情けは人の為ならず」がある。これを情けはかけないほうが良いと取る人が多い。鎌倉幕府が赤坂城を攻撃した際、降伏した城兵を一人残らず打ち首にした。この非情な行為がかえって相手方の勇気を鼓舞し、幕府滅亡に繋がった。この寛大さなき無慈悲な行為が自分に降りかかってくることから「人に情けを掛けておけば、いずれ自分によいことがある」という因果応報を語る句で「太平記」にある。
 「情に棹差す」も全く別のか反対の解釈が幅を利かしている。「他人事」を今は「たにんごと」と読む人が多く、アナウンサーもそう言っているが、本当は「ひとごと」である。
 オリンピック出場選手に対して福田首相が「せいぜいがんばってください」といったことが問題になった。 「せいぜい」には「高々」(at most)のほかに「できるだけ」(as hard as you can)の意味がある。現在は前者で捉えられることが多いが、後者がもともとの意味であるから、福田首相も間違っていないが、そのキャラクターから悪意に取られたのであろう。
 最近の文部科学省の調査で、「足元をすくわれる」と誤用して「足を掬われる」の代わりに使っている人が多いと言う。また。議論が煮詰まるを「そろそろ結論が出る状態になった」と取らずに、「結論が得られる状態でなくなった」と取る人が多いと言う。
 言葉は時代とともに変化するものであるが、無知が幅を利かす環境によって意味が変わっていくのは困ったものだ。国民の平均的品格を低下させ、今日の犯罪多発に加担し、さらに言葉の解釈がわからないような若者を急増させている時間浪費的テレビ番組は何とかならないものか。ここでも「悪貨は良貨を駆逐する」の原則が生きている。この意味のわからない学生が多いこの頃である。
 「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず(たま みがかざれば きをなさず まなばざれば みちをしらず)」(周末から漢代初期に至る礼に関する理論を記した「礼記」から;作者不詳)。人は学問をしなければ道理が理解できないものである。
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 080912 オリンピックが終わって2
 
柔道の石井選手が金メダルを獲得した時に、プレッシャーについて「監督のプレッシャーに比べれば屁のツッパリにもならない」と言ったのが話題になった。優等生的返事ではないので面白かった。「屁のツッパリ」とは関西で用いられることが多いようであるが、役に立たないと言うような意味である。
 石井選手は国際ルールを心得ているようであったが、試合終了寸前はいただけない。完全に受けに入っていたからである。試合終了直前でも、もしかしたら審判に指導を取られても仕方ない態度であった。斉藤監督が「前に出ろ」と怒鳴っていた。日本の柔道なら、試合が終わるまでは攻めなければ駄目だ。斉藤監督も同じことを考えていたと思う。今後ももっと怒鳴ってやれ。
 もう一つ印象に残ったのは、最終日のマラソンで佐藤選手が完走者の最後のランナーとしてゴールインして、走ってきたコースと観衆に向かって一礼したことである。いかにも日本的であるが小生は好きである。タイ人は何かあると手を合わせるがあれもいい。
 今回のオリンピックで目に付いたのは、メダル獲得者が自分の国の国旗を翳したり、肩に巻く光景である。主催国の中国がサービスで提供したのかもしれないが、小生はナショナリズムを煽るものとして、あまり好きなパフォーマンスではない。
 もともと、オリンピックは個人の力量を競えばいいのであって、国威発揚の場ではないと思っている。優勝した者は世界一になったことを喜べばいいのであって、自国に貢献したと思う必要はない。そういった意味で、閉会式はそのようなニュアンスを抑えたと言っていたが、国威発揚そのものの場とした国が、そのようなことを言うのは、本当のところは分かっているのかなと推察した。
 選手団が帰国後、解団式があった時に、しかるべき立場の人(団長や文部科学大臣)がもっと選手強化に予算が必要であるとか、国としてのサポートを唱えていた。しかし、オリンピックのメダル獲得に血眼になる必要があるのだろうか。わが国の金メダル獲得数は9個である。人口比率で言えば中国は90個以上獲得しなければならない。しかし51個である。金銀銅合わせて日本は25個、中国は100個である。人口当たりにすればわが国のほうが多い。
 人にはいろいろな生き方がある。国民の多くが、ある競技で世界制覇を心掛けるのに目くじら立てる必要は毛頭ない。それによって他人が幸福になるわけではない。もちろん、それらを手助けする人、スポーツ用具を売る企業は儲かるだろうが。
 そんなカネがあるのならiPS細胞研究、二酸化炭素の有機化、環境保全などの研究に予算を回したほうが世のためになる。
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 080911 北京オリンピックが終わって1

 ようやく北京オリンピックが終わりほっとした。本来ならそれほど見ないのに、コラムのネタにしなければと思って、閉会式をはじめ、その他の競技も自分としてはよく見た。
 報道は競技や閉会式を感激仕立てにするため、褒めちぎり、涙を溢す演出に心掛けていた。開会式同様に押し付けが強い演出の閉会式であった。あれほどの費用をかけてやる必要があるのか疑問である。ロープに人を結びつけて移動させることが好きなようであるが、最近の大きな大会でよく用いる手法で、特に目新しさは感じなくなっている。だから、あまりその様な場面が多くなると感激は薄くなる。
 閉会式の入場で、わが国の選手の多くが携帯電話を架けながら歩いていた。デジカメが普及し始めた頃、行進時にカメラを操作するのは止めましょうと言われたが、今はカメラで写す行為は世界的な現象になってきた。携帯電話も次のオリンピックの時にはどの国の選手も掛け捲るかもしれない。小生は10年前頃の学生の講義中の行動や、また新幹線で携帯電話のために寝ることができなかった苦い思い出と重なり、閉会式中の携帯電話をかける光景はちょっと嫌であった。
 日本人が一番感激した場面は水泳の北島選手のゴールと(とくに100m)女子ソフトボールの上野投手の力投とのことである。小生は女子柔道の谷川歩実選手の一本勝ちのシーンである。力任せになった柔道に対して、きれいな日本の柔道を見せたことである。
 ソフトボールは、野球と同じく、9人の選手プラス数人の控え選手で戦っているのであるが、ピッチャーだけがクローズアップされやすいスポーツである。上野選手の顔は分かったが、他の選手の顔は今もって小生は分からない。
 鉄腕稲尾投手の全盛期の頃、遊撃手の豊田選手がマウンドに行って、稲尾に向かって「一人で野球をやっていると思うな」と言ったという話は有名である。そこで稲尾はハタと「野球はみんなでやっているのだ」と気付いたという。
 今度の女子チーム優勝の場合、上野投手の400球以上の多投ばかりに焦点が当てられ、他の選手の苦労は余り評価されていないように感じられた。ここら辺りにもソフトボールや野球が国際的に評価されにくい一因があるように思えて仕方がない。
 多投したのは上野選手だけでなく、他国のエース投手も同様であった。短期決戦であることもあるが、案外ソフトボールは多投できるのである。金メダルのチームと比較するのは不遜であるが、小生は名古屋市水道局に勤めていた頃、職場の浄水場のソフトボールの選手であった。毎昼休みに練習するのであるが、楽しくて仕様がなかった。休暇を取って一日休む日も、昼は出掛けてソフトボールをやった。
 浄水場チームの捕手、4番打者として局内対抗試合に出て毎年のように優勝した。高速球の名投手がいたからである。だから、あの短い距離でいろいろな変化球を出せることを知っている。実業団の東レのチームと試合をして惜敗したが、彼等に野球とソフトボールは違うことを教わった。でも、野球と同様に投手の出来によって試合は強く左右される。
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080910 テレビ番組雑考 
 オリンピック期間はどのテレビ局も競技関連のことを報道する番組が多かった。へそ曲がりの小生はそれほど見たくないが、悠々自適一歩手前の状態で時間があり、さらにコラムの材料を探す必要から、ついテレビのスイッチに手が伸びた。しかし、オリンピック番組を見ざるをえないほどその他の番組では、観たいものはなかった。
 それなら本を読めばいいが、新聞を取っていないので最近の世の中の状況を知るためにインターネットかテレビを見る。このコラムでいつも書いているが、お笑い番組的なものが多いが、出演者同士が仲間内だけで楽しんでいるようなものばかりで、全然面白くない。電波と時間を無駄にしている。テレビ局が日本の白痴化に一生懸命になっているとしか思えない。
 最近は「ゴクセン」「帰って来たヤンキー」「ROOKIES」など、学園ものが多い。ストーリーは不良生徒が外れた道から真っ当な生き方をするようになるという点では同じである。気になるのは、真ともでない生徒、たとえば椅子に座らないで机に腰掛ける者、とんでもない髪型をした生徒が、先生に向ってため口をきく場面が多いことである。もしかしたら、ため口という言葉は比較的最近に汎用されるようになったので使わないほうがいいかもしれない言葉であるが、敬語を使わず対等な口をきくことである。
 表現の自由というけれど、まだ善悪の判断が固定化する途上にある子供にとって、テレビの映像に映る状況はおかしなものとは映らず、普通の状態と捉えがちである。そのようなことが知らず知らずのうちに蓄積して、今まで見られなかったような犯罪が多発する遠因になっていると思えて仕方がない。
 その道の専門家はそんなことはないという人が多いが、小生に言わせれば、そんなことを無視するような専門家なんて偽専門家と言いたい。
 もっとも、普通の生徒ばかりの登場ではつまらない番組になってしまう。NHKのクイズ番組が面白くないのは、底抜けに阿呆な回答をする芸人が出演しないからとも言われているが。子供への影響がわかっていても視聴率を上げるためには、ため口をきく生徒を大勢登場させたいのであろう。
 それを避けるために、ドラマなら時代を変えるのはどうであろうか。観ている子供が、あの頃はそんなおかしな者もいたのかと思って、現在には通用しない態度と取ってくれるのではないだろうか。これは1例であるが、悪い態度が肯定されないような番組を考えてもらいたいものである。
 テレビ局は収入の観点から、内容の濃さよりも軽薄さで視聴率を高めようとしている。経営のためなら形振り構わない。オリンピックを始めスポーツにおける競技開始時間が、完全にテレビの都合に合わされている。それほどテレビの威力が強い時代になった。国民を白痴化する力も強いことに気をつけなければならない。
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080908 若の鵬事件2
 
大相撲は古くから興行されていたが、スポーツや芸能のショービジネスは西洋の影響を強く受け、あるいは直輸入された。そこでは出場(演)者が客に向かって愛嬌をふりまくのが一般的である。
 だから、若の鵬は幕の内土俵入りの時、ふざけているのではなく、サービスのつもりで笑って入ってくるのかもしれない。K1で競技者が派手なパーホーマンスで入場するのと同じ感覚ではなかっただろうか。
 明治維新に鎖国が解けて近代文明が入ってきたときに、いろいろな病気など悪い面も同時に入ってきたのと同様に、スポーツも国際化すれば同時に思わぬマイナス面も入ってくる。相撲の国際化でも同様で、日本人が当たり前と思っていることでも外国人にはわからないあるいは知らないことがあり、日本人に理解されない行動をとることがあるのではないか。
 大阪天満宮における朝青龍の土俵入りを見たとき、土俵入りが終わって引き揚げるとき、彼は観客に向かってニヤッと笑顔を見せた。大変愛嬌に溢れる行為に見えたが、国技館の花道で同様のことをした場合は、愛嬌で済むかどうか。
 写真を撮るとき、ピースとか言ってV字を示す指を出すのが普通にみられる光景になってきた。これなども昔は見られなかったことで、自己顕示欲を表に出すことが当たり前とする西洋スタイルの影響であろう。
 北京オリンピックでメダル獲得者が表彰式を終えて、客席をよじ登って親に抱きついたり、下から子供の名前を大声で叫ぶ光景があった。テレビではそれを感激的光景として報じ、また感激したという人も多かった。しかしこれらの光景は、内に秘めるという我が国の伝統から離れた、感情を人前も憚らずに出す西洋文化の影響である。小生は好きではない。北京オリンピックでは、日本人以外でも吼える者が多くなった。嫌な傾向である。
 外人力士には、入門時の教育で我が国のものの考え方や伝統を教えることは必須である。しかし、もう青年に達している者に講義形式で教えても、他国の文化を会得させるのは至難の業である。親方や先輩力士との接触や日常生活から少しでも分かってもらうように心掛けるべきであろう。
 国際柔道とは違って、外国人が多くなったとはいえ大相撲は日本だけが胴元になっている競技であり、外国人はあくまでも他所から日本の敷居を跨いで入ってきて参加するもので、外国の文化を押し付ける立場にはない。
 しかし、外国人が多くなり、その多くが番付の上位を占めてくると我が国固有のスポーツも影響を受けるのは仕方ない。日本人力士が引き技ばかりを多用し、力相撲を忘れてきた現状では、形式的なことにあまりこだわってはおれない。土俵の上での力強い取り組みがみられれば良しとするか。いずれ、横綱土俵入りで「不知火型」「雲竜型」に加えて「モンゴル草原型」なんて言う型が新設されるかもしれない。
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080904 若の鵬事件1
 大相撲の前頭筆頭の若の鵬が大麻所持で逮捕された。吸う道具も部屋から見つかったということで、常習的に吸っていたのであろう。吸うのに特別の吸引器が要るのだろうか調べたら、巻煙草式、キセル式、水煙草式などいろいろあるようだ。
 今回の事件はいろいろな問題を浮き彫りにした。彼の属する間垣部屋の親方が春に弟子を竹刀で叩いて問題になった。また昨年脳梗塞で倒れて体がすぐれず、そのような者が十分な指導ができるのかということも指摘されていた。
 間垣親方は、元横綱の若乃花(貴乃花の兄ではない、その1代前)である。甘い顔をしていたので当時、蔵間というやはりいい顔の関取と、女性の人気を二分していた。女性とのタニマチ遊びが好きであるという噂が立っていた。
 タニマチとは相撲界の隠語で、今の若い人はあまり知らない言葉である。贔屓にしている客、後援してくれる客、スポンサーのことである。今では相撲界以外とくに芸能界でも使われることがある。
 タニマチの語源は、いま小生が大阪の住居としている谷町である。昔、谷町に住んでいた医者が相撲取りを無料で治療していたことから、相撲の贔屓客をそう言うようになったという。 
 若の鵬は解雇された。当然である。大相撲の健全性維持のためにはそれ以外の選択はない。そのこととは別に、両横綱が外国人であるという現状との関係から考察するのも必要であろう。
 今回の事件は親方の責任も問われているが、外国人力士の増加と彼らの番付上の高地位を占める割合が多くなってきたことも関係している。相撲の持つ文化的側面を十分理解せずに、ただ強いだけで番付を上がってくる力士が多いことが指摘されている。
 柔道が国際化するにしたがってポイント稼ぎ、力で捻り倒す技、足をつかんで倒す技が多用され、柔道の持つ「柔よく剛を制する」美しい技が必然的に消えていくことは別のところで指摘した。
 相撲も国際化するにしたがってそのような傾向が加速化するのは必然かもしれない。たとえば、幕内土俵入りの時、花道を入ってくるとき若の鵬はにこにこと愛嬌をふりまく。それをけしからんという人は「にこにこ」でなく「にやにや」していると見る。敬虔な行事に笑顔は不要と説いても、外国人に笑うのはなぜ不遜かわからせるのは難しい。
 人と出会った時に笑顔で接し、人に好意をもって迎えられるために愛嬌をふりまくのは普通である。商売で営業笑いをするのも一般的な現象である。しかし笑う行為は東西で違うようだ。
 小売店やデパートのような形態でモノを売る処では、我が国のほうが愛想はいい。西洋では売ってやるといった態度である。東洋では笑顔で売ってくれる。笑顔は我が国の専売特許と思っていたら、マクドナルドが上陸したとき、過剰なまでの愛嬌サービスはちょっとショックであった。
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080828 北京オリンピック:柔道の技

 小生の学生時代に柔道の東西対抗試合というのがあった。わが国のトップレベルの選手が東西に分かれて試合をするのである。正確の人数は忘れたが、片方20〜25人であった。しかし、勝ち負けが付くのは1〜2試合だけで、あとは引き分けである。見に行ったことがあるが少し退屈した。当時でさえ、もう少し攻撃的な柔道ができないかと思ったものである。今の国際試合のように引き分け的試合を防ぐようになるのは仕方ないと思う。
 何度も言うようだが、警告・ポイント制が柔道の形を変えつつあり、このオリンピックでそのことが定着したことを示した。その点の認識がわが国の選手に欠けていたのではないだろうか。
谷亮子が負けたのもそうだと思う。小生は、彼女は今回の金獲得は無理だと思っていて、周りの人達に言っていた。理由は覇気がなかったように見受けられたからである。覇気は相手の攻撃を熟知してこそ出てくるものである。あの組み手争いは明らかに負けており、自分だけが警告を取られたのを不満そうに振り返っていた。警告を取られるのがわからないこと自体が、現在の柔道の流れに取り残されている。
 諸手狩り、朽木倒し以外でも、身体ごと凭れこんで倒したり、放り投げるような力技がよく見られるようになった。小生は潜り込むことは得意であったので、「肩車」という担ぎ技もよく使った。この場合も審判が戸惑うことがしばしばあった。しかし、一本としてくれるほうが多かった。
 肩車も力技であり、自分より相当重い相手は担げない。小生は学生時代は60キロ程度だったが、ある試合で120キロの相手を担げなかった。完全に潜り込み、後は担ぐだけになったが、全然立ち上がることができなかった。試合後、相手に担がせてくれと頼んで担ごうとしたが、ダメであった。重量挙げの練習が必要かと思った。
 力技に美はない。柔道は、もともと「柔よく剛を制す」というものであった。小兵の場合、きれいな技でないと大柄の相手は倒れない。昔、三船十段という小柄の名人がいた。講道館で先生の乱捕りを見る機会があった。相当の年配の方であったが流れるがごとく動いていて、すごく印象付けられた。その乱捕りを見ることができただけで感激した。
 三船十段の柔道がわが国の柔道である。美しいのである。今までのわが国の柔道は、山下泰裕,古賀稔彦、井上康生らの試合からわかるように、きれいな技で勝っていた。タックル技ではない。柔道が体重別になったのも国際化の影響である。それによって、「柔よく剛を制す」と言う柔道の大きな特徴が消えた。
 国際化すれば、技の形が変わるのも仕方ないと思う一方で、美しい技を残したい。そのためには、国際化と別に国内だけで、国内ルールのもとでする試合もあってもいい。国内ルールの試合から国際試合に出るためには、力技を身に付けなくてはならない。できれば力技を撥ね退ける美しい技を身に付けるのが一番いいのだが。北京オリンピックでわが国の伝統を守ったのは谷本歩実である。寝技の入り方もよかったし、決勝の内股こそ日本の柔道である。
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080827 北京オリンピック:柔道1 
 柔道発祥の国として、わが国の成績が芳しくないことを嘆く報道があった。しかし、国際化したのだから、発祥の国が強いと決め付けることはできない。自分の国のスポーツが世界に広まったことを喜べばいい。また、国際化しても、試合の前後に礼をするスタイルは保たれている。大変いいことである。
 それにしても柔道の質が変わったという印象を今回のオリンピックにおける試合を見て感じた。国際化したのであるから、当初のスタイルと異質になるのは仕方がない。変質を嘆くのでなくて、わが国の柔道スタイルでそれに対抗すればいい。
 どのように変わったといえば、きれいな技で倒すのではなくて、相手に食らい付いて身体ごと倒す技、いや技でなくて自分の体重を相手に預けて倒す力仕事である。
 抱きついてタックルするだけであるから、返し技を食らう可能性は小さい。審判に技を掛けない忠告を受けない時間間隔で、相手に抱きつくことだけを心がければいいのであるから、疲労度も少ない。
 小生も大学時代に柔道をやっていた。諸手狩りで相手をきれいに倒したことは数回やった。今なら一本は確実であった。しかし、当時は審判に「そのような業は柔道にはない」、「品のない技だから無効」と言われて一度も認めてもらったことはない。今だったら、と非常に残念に思う。
 江口吾郎君(元熊本大学学長)という親友がラグビーをやっていたが、人数がそろわないので試合ができないと嘆いていた。体格がいいので柔道を勧めた。そこで、彼と何かラグビーの技が柔道に応用できないかと話し合い、諸手狩りがいいのではないかということになった。本を見たら諸手狩りが載っていたのである。早速、乱捕りや試合で使ったらよく相手を倒すことができた。
 諸手狩りは、ラグビーのタックル技がそのまま利用でき、相手にぶつかるように潜り込んで肩で相手のももを狙い、両手で足を攫うようにぶつかるのである。足を攫えなければ、胴衣の下を掴んで引っ張る。隙を見つけて潜り込めば、面白いようにかかるのである。多分、わが国古来の柔道スタイルはこのような業には弱いのであろう。朽木倒しもそうである。鈴木桂治が負けたのがそのいい例である。日本の選手には、もぐられないようにする警戒心が、一般的にないように見受けられた。
 今までわが国の試合では、諸手狩りとか朽木倒しの技を見たことがない。技を掛けない時間がちょっとあるとすぐ警告を受けるのが現在の国際柔道である。そうすると荒い技が流行るのは仕方がない。技を掛けない警告とポイント制が柔道のスタイルを変えてきた。その変化が一層はっきりしたのが今回のオリンピックではないだろうか。技を掛けずに試合が長引くことを防ぐ上で仕方がないのかもしれない。
 以前は国内ではそれほど見られなかった巴投げも目立つようになった。これも本格的に投げるというのではなく、攻めの形を示すための見せ掛けのものが多かった。警告対策である。力技も柔道が国際化するにしたがって進化しているようで、今回の大会でひねり倒すような技が決まり技として多用されていた。
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080825 北京オリンピック:開会式

 北京オリンピックは、マスコミが煽るほどには興味を持っていない。それでも開会式は少し観た。評判がいいようであるが、小生は退屈した。光による演出効果を狙っての夜の開会式になった。もともと花火がそれほど好きでもないので、感激はしなかった。花火はどうも戦争中の焼夷弾と結びついてしまう。
 焼夷弾を知らない人のほうが圧倒的に多くなったから、小生のような感想を持つ人はあまりいないと思う。だから、隅田川、淀川、琵琶湖の花火大会などに多くの人が集まる。焼夷弾はすごい勢いで火炎を吹き上げる。そばにいれば命の危険を感じるほど迫力がある。
 開会式は、人口が多いのが経済、軍事など多くの面で武器となっている中国を象徴しているセレモニーであった。人数が多いとそれだけで迫力が出る。しかも多い人数の演技者が同じ行動をとれば、人を惹きつける演出効果は高まる。北朝鮮のマスゲームがそれである。ロシア、北朝鮮の軍事パレードがそれである。ドイツもヒットラー時代にそのような光景が見られた。
 無駄の効用を認める小生ではあるが、セレモニーはあまり好きではない。スポーツの祭典ならみんなが集まって、「さあ始めましょう」と挨拶程度の開会式をやってすぐ競技をやればいい。スポーツと関係ない見世物を出して金を使う必要はない。そのカネを民生か環境改善に注ぎ込んだほうがいい。その国の歴史を刻む出し物を見せる意味が何処にあるのかわからない。
 開会式を派手に行って、そのごの競技を盛り上げようとするのが目的かもしれない。あるいは「このようなことができる国だぞ」ということを誇示するつもりなのか。もし、次回のロンドン大会で、中国に負けないようにとさらに派手な演出を行うとしたら、全くくだらない。オリンピックなんて止めてしまえと言いたい。開会式なんて、甲子園の高校野球の開会式程度でいいのだ。
 途中から退屈して開会式を見るのを止めた。後になってニュースで花火や少女の歌う姿が映っているのを見た。そうしたら、手を加えた花火の映像を配信したことと少女の歌う姿は口ぱくであったことが報じられた。口ぱくの少女の歌う姿が、北朝鮮の少女の歌う姿とそっくりなのには驚いた。↑ページトップ 

080821 謝礼2
 
お願いする時に金品が動くのが一般的といっても、公的な機関や立場の人に金品を差し出せば汚職になる。そことは一般的よく了解されている。ならば、学位を取得する時に、取得してからお礼としてカネを差し出すのは罪になるのだろうか。カネで学位を買ったのでなくて、学位を取った後のお礼なら、カネで学位を買ったことにはならない。
 しかし、学位取得後にカネを差し出すのがあらかじめ暗黙のルールとして決まっている場合はどうなるのだろう。小生は法的なことは知らないが、横浜市大の場合はどうやらこの場合に相当するようである。大学でそのようなことを禁じるようにしているようで、大学のルールの違反ということで処罰を受けるようである。
 小生は、医学部の人には怒られるかも知れないが、医学部ではどこでも同様の状態ではなかったかと思っていた。もちろん学位を取得した後のお礼である。医学部以外でもお礼の話はよく聞いた。この場合、やはり国公立の大学と私立では違うのではないだろうか。   
 私立の場合は学位を取得する以前に金品の授受があっても贈収賄にはならないのではなかろうか。教員採用の場合と同様に、私立は金銭的に自由度が高いようである。横浜市大医学部の先生の場合は大分県の教育汚職の場合と違って、採用や昇格に関係していない。だから事件がばれて当該教授以外に傷ついた人はいない。
 内部告発で明らかになった事件であり、告発した人は横浜市大から学外に飛ばされたようである。内部告発を守る法律ができたけれど、通常の人事異動の形をとると、反論しにくい。本人もそれぐらいのことがあることは十分承知していたのではないだろうか。
 お礼をするのも受け取るのも、それが許される条件が昔より狭くなってきた。昔のように何かをお願いのためあるいはお礼に差し出したりすることはできない。でもあれもダメこれもダメでは、なにか世の中少しぎすぎすしていると思いませんか。程度問題であろうが、その程度が人によって違うので困る。
 公的な人にはダメで民の人ならいいと言っても、公立病院に入院して世話になった場合と民営の病院の場合と違った態度をとるというのも難しい。同じ人間が同じ病気を治してもらった場合、有り難さは同じである。その気持ちを片方には表すことができるが片方にはできないというのも、患者の立場に立てば違和感がある。
 ぎすぎすしてもいいから、物品の授受は領収書が取れるもの以外はしないほうが、くよくよ考えなくて済む。世の中に揚げ足取りが多くなってきたから。
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080819 WTO

 今回の多角的貿易交渉の非公式閣僚会合は、先進国と新興国、発展途上国の対立をなんとか解消して合意を得ようと目論んだものである。厳しい対立の中、ラミー事務局長が裁定案を示した。ラミー氏はフランスの出であり、公平に物事を見る人として評価されている。
 ラミー事務局長の裁定案のうち、農産品の一律的関税の引き下げの例外となる「重要品目」を、全品目の「最大6%」とするという案で、主要国は受け入れる方向になった。日本は「8%」以上を主張したが、退けられた形になった。
 日本の方針として若林農相は、重要品目の指定の自由度を高めることに軸足を移すと述べていた。しかし、ブラジルなど食糧輸出の途上国グループが自由指定に反対である。日本と同じような国情の大国はないので、我が国自らの主張を強く言うことができない。
 結局は、米国と中国・インドが対立して合意に至らなかった。インドや中国が「緊急輸入制限」の発動条件を厳しくすることに反対し、米国は補助金削減案に不満である。合意には全加盟国の賛成が必要である。来年は米国の政権交代、欧州議会選挙、インドの総選挙があり、しばらくは交渉再開の見通しがない。
 ヒト、モノ、カネの動きがグローバル化するにしたがって、自由貿易体制を維持する必要性は高まっている。食糧は各国の安全保障に欠かせないものであるから、他国が必ず供給してくれるという保証がなければ、ある程度の保護主義も仕方がない。一方でそれを口実で保護主義のメリットだけを得ようとするのも好ましくない。
 ここではWTOの具体的話をするつもりはなかった。言いたいのは、国際的場において右往左往するのがわが国の特徴であるが、それが今回の会合でも見てとれたこととインド中国のように国土が広くて人口が多いところは強いということである。
 我が国は米国、中国、インドという巨大市場で稼がなくてはならないので、双方の顔を窺わなくてはならない。米国における自動車の売り上げ台数が、日本車が米国産車を抜いたという。そのためには農産物の関税を一方的に高くするのを避けなければならない。
 今、日本は自給率の低さが話題になっているが、関税を下げれば一層自給率が低下する可能性がある。そうなれば、食料の安全保障に暗い影を落とす。
 中国やインドは、自国の大きな市場を売り物に、怖いもの知らずの発言ができる。WTOの会合の中で、堂々と主張を通し、米国などの先進国に立ち向かうことができるのは、人口の多さが武器になっている。毛沢東の人口政策が今頃になって効果が表れてきた。しかし、人口が多いことが食糧の需給の世界的なバランスに影響を与えている。
 一方、米国は食糧による世界支配を狙っているようである。今までは小麦の生産の多さでそれを果たしていた。日本が第二次大戦に敗れたとき、米国は日本の食生活を変えた。パンその他の小麦材料の食品を多くすることによって、米国の小麦の市場とした。現在は、遺伝子の確保とその利用によって、新しい食料による制覇を狙っている。WTOの場で、これら大国の思惑の違いが鮮明に描き出された
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080818 インドと中国の力
 WTO(世界貿易機関World Trade Organization)の多角的貿易交渉(通称ドーハ・ラウンド)が9日間に及ぶ非公式閣僚会合の末、決裂に終わった。農産品の緊急輸入を巡る米国と中国・インドの対立が決定的となったからである。このニュースは我が国ではあまり報じられていなかった。くだらない芸能スキャンダルや自分らだけがケラケラ笑う面白くもない番組をする余裕があるなら、このWTOの会合をもっと伝えるべきである。
 福田首相が内閣改造を行うのに、この会合に出席していた二人の大臣が帰国するのを待った。これは大臣不在のまま欠席裁判的に人事を決めるのは失礼ということのほかに、現職大臣から会合自体の内容を聞きたかったのではないかと思う。
 と、書いていたら、テレビの「サンデーモーニング」(8月3日)で今回の会合のことを報道していた。いいことである。結構詳しく報じていたが、まだ食い足りなかった。娯楽的でない社会問題にひと枠もうけて報じたことは買っていい。
 そもそもWTOを知らない人が多い。WTOはGATT(ガット)を継承した国際的な機関である。世界の153の国及び地域が参加している。貿易の自由(関税の低減、数量制限の原則禁止)、無差別、多角的通商体制を基本原則としている。物だけでなく金融、情報通信、知的財産権やサービス貿易も含めた包括的な国際通商をも協議する場である。
 要するに、モノ、カネ、情報などを自由にやり取りしましょうということで、それができるのが理想であるが、各国によって事情が異なり、そうは行かない。
 農産物を例にとってみる。農産物を自由化すると、輸入品が国産品より安ければ、国産品が売れなくなり、それを作る農家がダメージを受ける。それを避けるために輸入品に関税をかけて自国の該当産物農家を守ろうとする。一方で、農産物に政府が補助金を与えれば、安い農産物を輸出できることになる。米国は穀物にこの手を使っている。
 今回の会合は、簡単にいえば関税を下げて輸入しやすくしろということと補助金を下げて輸出の勢いを下げよということとのせめぎ合いであった。
 日本は、食料自給率が30%と低い。さらなる市場開放を求められるとさらに自給率が低下する。例外的に関税削減幅を低く抑えられる重要品目の数を、前農産品1332品目のうち8%が大幅な関税削減を免れることを狙っていた。
 現在1706%の高関税を課しているコンニャク芋が、もし高関税をかけられる重要品目から外されれば、税率が一気に約510%下がることになることになり、外国の安いコンニャクが輸入される量が多くなると予想される。そうなれば、我が国のコンニャク農家は困窮することになる。↑ページトップ

080816 「8月15日」
 63回目の終戦記念日である。子供の頃のある日のことはよく覚えているが、その特定の日の一つである。玉音放送があるということで、学校の先生が全員小生の家に集まった。広い部屋があり、ラジオもない先生もいるので、校長から「君の家で先生全員で玉音放送を皆で聞くことはできないか」と頼まれ、親の承諾も得ず承知した。
 当時のことで、真空管ラジオの調子はちょっとしたことで変化する。日頃、小生が調整していた。玉音放送は聞き取りにくかった。音が悪いので責任を感じたが、何処でもそうであったと大分後になって聞いた。音の悪い放送であったが、戦争に負けたと言うことはわかった。子供心に、これからどうなるかということが頭に浮かんだ。不安というより、ただ漠然とどうなるかという考えが頭を掠めた。
 当時、小生の家に陸軍の兵隊が一斑だけ常住していて、小学校の陣地作りをしていた。敗戦とわかっても上下の秩序と軍人勅語の唱和は欠かさなかった。しかし、塹壕作りは即刻止めた。みな農家から来た兵隊ばかりだったので、すぐ魚を取る網を作りはじめた。鍛えた身体と秩序で瞬く間に材料を揃え、網を作り上げた。それから、隊列を組んで川へ行き、川を堰き止め、水を掻い出して魚を取り始めた。
 子供の自分は楽しくて仕方なかった。子供の遊びとは違う大掛かりな作業であったので、ただ見とれるばかりであった。
 兵隊さん達は、戦争に負けたことはそれほど残念がっている様子はなかった。班長の伍長は少し残念がっている様子が伺えた。班長は弟が空爆でやられたので敵を討つのだと張り切っていた。
 8月15日を境に、世の中の価値感が一変した。鬼畜米英、それに異を唱えるものは非国民と言っていた人々が、手のひらを返すように、自分は人の言うことに耳を傾ける民主主義者だと言い出した。
 極端に言えば一日で価値が変わるような経験を経たためか、小生は絶対的価値をあまり認めることができなくなってしまった。
 毎年、8月15日になると、上記のことを思い出す。かんかん照りの暑い一日だった。
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080812  「8月6日
 美空ひばりの「一本の鉛筆」は、小生の大好きな歌の一つである。彼女の数多い歌の中で一番好きである。歌詞がいい。「一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く」「一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいとかく」「一枚のザラ紙があれば、あなたを帰してと書く」「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く」「一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」この歌詞がたまらない。
 歌うのは、スローバラード調で難しい。しかし、原爆の悲惨さ、いのちの大切さが、歌っている中にジワーとこみ上げてくる。カラオケで歌う時、涙がこぼれる時がある。歌詞は、なぜ人は争うのか、なぜ戦争をするのか、その悲惨さと身内を亡くす悲しみを心から絞り出すように書き上げている。
 静岡にいた小学生の時、広島の方で新型の大型爆弾が投下されたとすぐ情報が流れ、子供にも伝わってきた。その時は原爆とは何か知らなかった。静岡は一晩の空襲で街がほぼ壊滅した。だからその時は、一発の爆弾で街が全壊するのと一晩で全壊するのと大差ないと思った。亡くなった人にとっては同じ意味だと今でも思っている。
現在の6ヶ国協議は原子力の扱いが主題である。また、クラスター爆弾も多数の被害者を出すことと不発弾による被害が多発することから使用が制限されるようになった。威力の大きい武器の使用が国際的な場で問題視される。しかし、死んでいく者あるいは被害を受けて後遺症で悩むことは、その原因が鉄砲の弾や普通の爆弾、焼夷弾であろうと原水爆であろうと同じである。全ての武器の使用と戦争やテロをなくすことが必要である。
 毎年8月6日になると追悼式が行われる。また被爆死者の名前が刻まれる。それはそれでいい。しかし、普通の空爆で亡くなった人はどうなのか。意に反して亡くなったのである。ある人は焼け爛れ苦しんで亡くなった筈だ。追悼してあげる対象に差はないはずだ。
 小生の家は幸いにも空襲の被害を受けなかった。目の前まで焼かれたが、我が家は助かった。朝になって、学校が焼かれたことは想像でき、行っても仕方がないはずだが、学校に行ってみた。子どもにとっては小学校は心の拠り所であり、行かずにはおれなかった。途中は火傷をするのではないかと思われるほど熱い道を歩いて行った。校舎は跡形もなく焼け落ちていた。
 呆然と佇んでいたら、同級生の親が来て、「君はこの学校の生徒かね。内の息子は亡くなった。それを知らせに来た」と話しかけてきた。同じクラスの生徒である。ショックだった。その父親の悲しみに満ちた顔は今でも忘れられない。その帰りの途中に同じクラスの家のそばを通った時、その一家が全滅し、死体が横たえられていてのを見た。これらの死は、本人や身内にとっては、原爆の被害者と同じであるはずだ。
 同じ内容を持つ被害であるが、一方では名前が刻まれ、国家的追悼が行われる。一方は歴史の流れに流されて時間と共に消え去っていく。世の中、生まれる時はもちろん死んだ後も公平に扱われるとは限らない。それを無くすためにも、「一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く」さらに「一本の鉛筆があれば 武器よさらばと私は書く」
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080810 謝礼1
 大分県教員事件のようにカネが動いたという事で少し似た事件に、横浜市大医学部の学位授与事件がある。関西ではさほど大きくは報じられていない。学位授与に対して数十万円〜数百万円を教授に贈ったという事件である。カネを贈ったから学位を貰えたのか、学位を貰ったからお礼をしたかによって扱いが違ってくる。
 内部告発によって明らかになった。告発者はカネを上納するのが習慣になっていると言い、教授は貰った事は認めたが、審査に必要な文献の入手など必要経費として使ったまでという。告発者によれば、結婚式の仲人を教授にお願いしないと差し障りが出てくるとか、教授夫人が"イメルダ婦人"のように振る舞うとか述べている。
 医学部は小説「白い巨塔」に見られるような体質がある。教授を頂点とした医局の構造がある。教授が最大実力者とは限らない。その教室の縦の繋がりで、退職していてもボス的存在がいたり、そのボスを取り巻く閣僚的メンバーが五月蠅い場合もある。医局の封建的体質に横穴を開けたつもりが、研修医制度である。旧体質の機能を見誤ったので、医者不足が問題になっている。
 旧体質といっても、伝承すべき技術を確実に伝える組織は、わが国では家元制度を発達させた。一種の文化である。剣術、茶道、華道、書道、歌舞伎などなど。相撲は実力だけで地位が決まるわが国では珍しい組織であり、土俵入りや仕切りなどの作法を継承するという形で伝統を守っている。
 断っておくが、小生は家元制は嫌いである。技術を伝承する目的が、一つ間違えれば目的を口実に集金システムになるからである。医学部も自己の施設のほか外部の医療施設への要望に応えるため多くの学生を抱え、着実に医学の知識と技量のレベルを上げるためには、ピラミッド式組織にせざるを得ない。気を付けないと、いつの間にか家元制の集金組織になっていく。
 でも、お世話になった人にお礼を、あるいはこれからお世話になる人にお願いを込めて、金品を差し上げるのは、わが国の風習としてよくあることではないだろうか。入院し、治って退院する時に主治医や看護婦にお礼をするという事はよく聞く。治療費は払っているから金品を出す必要はないが、出そうとする気持ちはよくわかる。小生が今通っている病院は、金品の授受を禁じているビラが貼ってある。
 大学というところは外部の人がよく来る時がある。技術的なことを相談に来たり、学生の求人のために来るのであるが、お願いに来るのであるから手ぶらで来る事は少ない。これが贈収賄になるのであったら、わが国の大学の先生は多分全員が犯罪を犯していることになる。外部から相談に来ないような先生なら、あまり役に立たない先生だ。↑ページトップ
080805 大分県教員人事事件2
 試験から採用に至るまでの過程に透明性を欠いたのが今度の事件の原因である。官公立だから問題になったが、私学ではどうなのか知らない。職員採用でなくて大学入試ではどうであろうか。官公立では、採点を操作して合否を左右したなら、今回と同様に問題となる。金や物品が絡んでの操作があれば入試といえども問題である。しかし、私学では同系列の高校なら自動的に加点されることが一般に行われている。入試は平等な条件で行われるべきものなら、この加点は今回の贈収賄事件と同様に試験を歪にしている。
 小中高大一貫校は、一貫性を通して学園の理念を浸透させることを目的としているという大義名分があるから、一貫性自体は悪くない。有名学園では高校や大学に入り易いために幼稚園、小学校あるいは中学校の入試が難しくなる。その難関を潜り抜けたから、大学に入る時に無試験であったり、採点に加点をするのは当然であるという理屈が通っているようである。
 会社でもその通りで、自分で稼いだ金で雇うのだから、誰を採用しようが会社の勝手である。なぜ今回の大分県の事件が問題になるかと言えば、大分県は公の自治体である。自治体は税金で運営されている。税金で運営されている組織の採用は、税金を納めている人々に対して公平でなくてはならない。この公平性を欠いた今回の贈収賄事件はけしからんということになる。
 採用でなくて昇格の場合はどうであろうか。金品を送って昇格したケースは、やはり地位を金で買ったことになり、公正を欠いた。このような場合も民間なら認められるのだろうか。多分認められるのであろう。
 だからこそお中元、お歳暮を贈る風習が昔からあり、一向になくならない。お世話になるからモノを送る。損得勘定があるからこそ、そのような風習がある。利を得るために金品を贈る。そのような風習は官公庁など公の場では許されない。
 このように一般的に行われる風習もある枠からはみ出せば犯罪になる。そのため、今回の事件は、枠の存在をついうっかり忘れて世の中の風習を、してはならない場を見失って行ってしまった事件ということができる。
 今度の事件では、贈収賄を行った本人達は罰せられるべき対象者であるが、特徴的なのは刑事罰の対象にならない被害者が出ることである。被害者とは、本人の知らないうちに不正に操作されて採用された人と合格点を取ったけれど採点を削られたりして試験成績を不合格とすべく操作され、その結果採用されなかった人である。哀れである。↑ページトップ
080804 大分県教員人事事件1
 大分県教育委員会の汚職人事が明るみになった。まさかと思われるほどの事件である。採用試験と昇格人事の両方に贈収賄があった。でもこの事件はわが国の文化と深いかかわりがあって、当事者だけが悪くて、その他のわれわれは全く無縁と言い切れるかどうか。   
 何かを頼み、望みがかなえられれば当然それに対してお礼をする。そのようなことが、中立が最も求められる場で行われた。人間の弱みが滲み出ているような事件であった。
 やるせなく思うのは、取り返しがつかないことである。合格していたかもしれない人にとっては、その人の人生の中で貴重な時間が失われた。反対に不合格であったことを知らずに合格してすでに教壇に立っている人にとっても、気の毒と思う以上に哀れみを感じ得ない。当然と言う人もいるだろうが、からくりを知らなかった人が解雇されることは、自分の意思に反して、人生のレールが敷かれてしまったといってよい。
 今度の事件で最も悪いのは試験成績に手を加えて、ある人の点を削ったことである。採用試験には二通りある。ある資格を持った人が受ける試験と資格が関係ない試験である。この場合の資格とは学歴とは別の資格である。前者の場合は、資格を持っているということで受験者のレベルは一定以上であることは保証されている。採用人数に限りがあるから、篩い分けの手段として試験をする。
 そのような試験では、試験で落ちてもその人が試験の対象業務に適していないとは限らない。たまたま受けた試験の点数が足りなかっただけである。不正に合格した人が能力的に教壇に立つだけの実力を有していないわけではない。
 だから、不正を知らないうちに合格してしまい、実績を作った人に対しては、解雇以外の方法で救済する方法はないだろうか。意に反して傷ついた本人の実力を公正に再評価して、雇用を継続できるケースがあってもいい。子供たちには何ら悪影響はないはずだ。
 一方、合格点を取っていたが採点を削られて不合格になった人に対しては、まだ教員になる意欲があるならば、該当者全員の面接をやり直して再評価した上で採用すべきである。定員より増えそうであっても、新たの新規採用を控えてでも採用に向けて前向きに対応すべきである。あるいは、私学や近県の教員採用に働きかけるとか、できるだけ希望に沿って教員になれるような措置を取るべきである。県自体に責任があるからそれだけの努力は自治体としてすべきである。
 資格が関係しない試験、たとえば一般職の公務員試験では、上級職の場合、大学卒という縛りはあっても、大学卒のレベルに共通の評価基準がない。だから、採用試験は応募者を定員内に絞ることと資格に相当する応募者のレベルを吟味することを兼ねることになる。
 このような場合に、不合格者を合格させるような不正があれば、ある資格によってレベルが保証されていないから、解雇するのもやむを得ない。
 しかし、その場合も本人の知らないところで行われた人事ならば、自治体にも責任があり、「ミスがあったからお辞め下さい」ではあまりにも非礼であり、本人に対してできるだけの救済措置は取らなくてはならない。↑ページトップ
080801 音楽余話2
 1990年、JICAの仕事でブラジルに行って帰国途中ニューヨークで1泊した。時間を有効に使うべく、ニューヨークについてすぐ街を一周し、メトロポリタン美術館に行ったり、ティファニーに行ったりしてから、夜はニューヨーク・フィルを聴きに行った。ズービンメータの指揮で、主プログラムはベートーベンの交響曲第3番「英雄」であった。知っている曲であったし、世界的に知られた指揮者とオーケストラの演奏を聴くことができて、忙しかったけれど楽しい一日であった。夕食は、疲れをとるために米国特有の超大のピザパイを食べた。
 外国でオーケストラを聴いたのは初めてであった。中休みの時にビールやワインを飲むために行列ができた。自己責任の自覚がはっきりしていれば、幕間に何を飲んでもいい筈だ。日本の演奏会でアルコールを飲む人はあまり見たことはない。小生の経験が少ないだけのことかもしれないが。
 WHOやUNEP(国際環境計画)の会議に出席した時、昼食時にビールなどのアルコール飲料を飲むのは普通であった。それから考えても、コンサートで酒類を飲むのは別に不思議ではない。アフター5より早くアルコール飲料を飲むのは不謹慎とみる傾向がわが国にはある。もう少し気楽に考えた方がいい。ディナー・ショーというのがあり、初めから飲み食いするのが前提で行われるショウやコンサートがあるではないか。
 そのほか外国で聴いた音楽は、ワシントンでオペレッタ「コンラック」、ボストンでボストンポップス、シュツッツガルトでオペラ「彷徨えるオランダ人」などがある。ワシントン(1992)ではフォード・シアターというリンカーンが暗殺されたという由緒ある劇場に入った。今でもその席はそのままである。劇場全体がその当時の雰囲気のあり、アメリカ版掘立小屋のような劇場で、スーツよりジーンズを穿いて観劇した方が似合うような劇場であった。中島淳君(立命館大教授)と一緒であった。歌の英語はわからない。彼に通訳してもらった。
 外国で音楽を聴くケースが多いのは音楽を趣味としているからではなくて、外国へ来たから空き時間を印象的に且つ有効に使おうというケチな根性からである。また研究発表会主催者が建てたプランに乗る場合もある。開会式に一流の演奏者を呼ぶ場合がある。1988年のIWAのブライトン(イギリス)大会の開会式にアン王女の出席のほか女王陛下近衛軍楽隊の演奏があった。
 この女王陛下軍楽隊の演奏は有名で、わが国でもCDを買う事ができる。それの生演奏を聞く事ができた。アーニー・ローリーや庭の千草など知っている曲が多いのがよかった。今年10月、大阪のフェスティバル・ホールで当軍楽隊の演奏がある。
 なおアン王女は気軽に行動をするようで、展示を見るためにホテルに入るところに出会った。目の前をわずかな付人と共に通り過ぎていった。着ているものが質素であった。「曲がりくねった道」で触れたように、一昨年わが国の両陛下を目の前で拝する機会があったが、身に着けているもののデザインと質はわが国のほうが上である。↑ページトップ

080731音楽余話
 最後の曲は「ふるさと」であった。この歌の出だしにある「兎追いし・・」というような風景を今の都会の子供達は知らないだろう。小生も高校を卒業するまでは経験しなかった。大学に入って野ウサギを見るようになった。大学は今では想像も付かないほど自然の中にあった。
 卒業後富山で勤めた事があるが、ここの校舎でもいろいろな動植物に出会う事ができた。学校の中庭を雉が並んで歩いたり、兎がぴょんぴょん跳ねながら移動するのがときどき見る事ができた。国道から大学に歩く道の横の小川にはメダカや鮠が一杯見る事ができた。宿舎の近くの川にはアユやウグイがたも網で取れるのではないかと思われるほどいっぱい見る事ができた。
 このように歌は結構思い出と結びつく事ができる。歌はいろいろ知っておいたほうがいい。今もって後悔しているのは何か楽器を弾けるようにしておけばよかったということである。小学校時代から、教科のうち音楽や工作は将来役は立たないと思って軽視していた。しかし、今にして思えば、数学より音楽に精通しておけばよかったと後悔するこの頃である。今はカラオケで取り戻せない青春を懐かしんでいるに過ぎない。音楽は過去の思い出に結びつき、心を慰めてくれる。
 音楽ならクラシック、ジャズ、タンゴ、何でもいい。もっぱらCDで聞くことが多い、時間と経費の都合で生演奏を聴くことは少ない。だから今まで聞いた生演奏はよく覚えている。1973年東京文化会館で、ムラビンスキー指揮によるレニングラード・フィルの演奏を親戚の者に連れられて聴きに行った。曲目はショスタコーヴィチ:交響曲第5番(革命)である。
 当時はまだ素晴らしい演奏と判別できる能力は全くなかった。行かれなくなった義妹の代わりに、切符がもったいないと思って行ったのである。楽団と指揮者の名前は世界的と承知していた。だから聴きに行ったまでで、曲の素晴らしさより、もう高齢で再度の来日はないだろうと言われていたムラビンスキーが、曲が終わってから指揮棒を視聴者に与えていたのが印象に残っている。大分経ってから、この時の演奏がCD化されて、名盤として市販されていることを知った。
 現在はCDをあまり買わずに、レンタルショップで借りてCD−Rにコピーをとることにしている。また全てをハードディスクに保存している。もっぱらカラオケで歌えるかどうかで選曲している。コピーしたものから選びさらにSDカードにインプットして移動中に聞けるようにする。今まで買ったCDは千枚以上に及ぶ。とくに好きなのはキース・ジャレットのバッハ、モーツァルト、ラフマニノフなどのクラシック曲を演奏しているものとかヤニーの演奏曲(例えばアクロポリスの幻影)、関孝弘のピアノ演奏のチマローザ「ピアノ・ソナタ全曲」などである。↑ページトップ

080730 シティモで音楽2
 つぎは「月の砂漠」であった。小生はこの曲をカラオケでよく歌う。単純な唱歌を越えたノスタルジックな曲でジャズなどでよく演奏されている。この曲で思い出すのは、イスラエルに行った時、瓦礫の道を駱駝が隊列を組んで荷物を運んでいる光景である。駱駝は走ると思ったより早い。坂道を駆け上っていくのを見た。
 「水色のワルツ」と「桜貝の歌」はともに高校生の頃、NHKの歌を紹介する番組で聴いた。真空管のぼろいラジオを思い出す。前者は、高木東六が天竜川のほとりを散歩しながら浮かんだメロディーが原曲とのこと。桜貝は、由比ヶ浜の海岸で見付けたものだそうで、由比ヶ浜などの湘南海岸へ行く時はつい桜貝を探してしまう。
 「椰子の実」は、柳田国男が愛知県渥美半島の伊良湖海岸で見付けた椰子の実の話から、島崎藤村が叙情詩を書いたのに曲を付けたものである。この椰子の実ゆかりの地にも行った事があるが、しかし、ピアノ演奏を聴きながら思い出したのは別の地であった。
 伊良湖から伊勢湾を見れば三島由紀夫著「潮騒」の舞台である神島が見える。遙か彼方に三重県鳥羽市が見える。その手前に菅島(スガシマ)という島があり、そこに名古屋大学の臨海実験所がある。そこで1年間暮らして卒論を書いた。そのため、「浜辺の歌」では連想しなかった学生時代を、「椰子の実」を聞きながら思い出した。
 「恋に落ちて Fall in Love」は徳永英明が最近カバーしたのがヒットした。この曲は好きであるが、この歌にまつわる思い出はなく、徳永の八重歯がちらついた。「いい日旅立ち」については谷村新司がテレビ番組「田舎に泊まろう」に出演していたのを思いだした。
 次の演奏曲「七つの子」は小生にとっては思いで深い歌である。大学生の頃、壺井栄の「二十四の瞳」が映画化され(主演:高峰秀子)、すごく感激した。映画における小学校の先生の慈愛に満ちた優しさが自分の小学校入学当時の担任の先生のものと完全にダブり、映画を見終わってからすぐクラス会を開く事を働きかけた。その結果が、このコラムで触れたように今も続いているクラス会となった。その映画の主題曲として流れていたのが「七つの子」である。この曲を聴くと、今でも野賀先生(担任)やその頃の光景が甘酸っぱく思い出される。
 いまワープロを打っていたらテレビのドラマの中で、小生と全く同じことを言っていたので思わず偶然の一致におどろいた。小豆島と言えば二十四の瞳、二十四瞳と言えば高峰秀子の映画で、そこで流れていた「七つの子」はよかった・・・、と言って俳優が歌い出した。小生と同じ年代の人の中には、もしかすると同じ感想と思い出を持っている人が多いかもしれない。
 小豆島は阪神水道企業団時代に行ったことがある。同じ職場の3人で行ったが、二十四の瞳の舞台の小学校を見て感激したのは小生だけだった。ストライキのため交通機関がストップ。普通はロープウェイを使えるのを歩いて麓から寒霞渓に登った。頂上から瀬戸内海を見渡した後、下山し帰りの船待ち時間を使って地元の銭湯に入った。何も持たずに飛び込んだが、番台で手拭いと石けんを貸してくれた。よき時代であった。
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080728 ちょっと散歩:シティモで音楽

 天満橋のシティモール、ジュンク堂で本を買ってからエスカレーターで降りていたら、ピアノの生演奏をやるとのアナウンス。空いた椅子席があったので聴くことにした。最後まで聴いた。クラシックでクレメンティのソナチネ、ベートーベンの乙女の祈り、やはり小ロンド形式の曲(誰の曲か忘れた)。たまにはクラシックを聴くのもいい。ピアノを聞いていると不思議とヨーロッパの風景が浮かんでくる。とくにドイツの蔦が生えたような壁を通り抜ける小道や小川が思い出された。
 演奏者は神庭 愛という若い女性である。演奏者を評価できるほどの鑑賞能力は持ちあわせていない。でも気持ちよく聴く事はできた。演奏中の指を眺めていたが、ピアノは指が撓うように叩くのがよくわかった。もう相当昔であるが、知人を訪れた時、その知人の親戚の子がわが国でもこれから有望なピアニストであるが、指の運動の為に関西からわざわざ東京まで毎週出掛けると言っていた。真珠のミキモトの女社長が、知る人ぞ知るピアニスト相手の指運動の大家と言っていた。神庭さんの演奏を聴きながらそんな事を思い出した。
 実は翌日(18日)もピアノの生演奏を同じ場所で聴く事になった。この日は日本の曲というプログラムで、中須賀沙織さんという方の演奏であった。京阪CITY MALLの生演奏は主として相愛大学と大阪音楽大学の披露の場所である。彼女は相愛大学出身である。
 ポピュラーな日本の曲であったので全て知っている、いや知っているだけでなく歌える曲ばかりであった。演奏を聴きながら、曲に合わせていろいろの風景が思い出と共に浮かんできた。
演奏された曲の順に書くと、「夏の思い出」は既にコラムで触れた尾瀬の景色と同行者を思い出した。尾瀬はわが国の誇れる湿原であるが、最近はニホンカモシカに荒らされているとの事である。この曲を聴くと花の美しさと空気の涼しさが蘇って来る。それと共に、「湿原」という言葉に釣られて、世界最大の湿原:ブラジルのパンタナールに行った時の苦い思い出が重なる。いろいろな動物には出会う事ができたけれど、一日中蚊に襲われたことや数十匹のウシガエルを払いながらコッテージに入らなければならなかった事、カブトムシぐらいに大きいゴキブリに出会った事など悩まされた事ばかりであった。
 「浜辺の歌」は、唱歌という事もあって自分が育った故郷の海が浮かんできた。水浴場の基準に関する仕事をした関係上、我が国の浜辺は数多く実際に見ている。伊能忠敬には敵わないが、北海道から沖縄まで相当な距離の海岸を見ている。また卒業論文のために1年間三重県の菅島で海辺を見ながら過ごしたが、この曲を聴きながら浮かんできたのは故郷の海であった。駿河湾の奥の浜辺である大浜海岸と三保の松原と袖師海岸である。よく遊びに行ったところである。
 この日の演奏にはなかったが、もう一つの思い出深い海の歌は「われは海の子」である。空襲(1945年6月19日未明〜23日早朝)で校舎が焼け落ちた数日後、授業再開時に担任の先生が生徒を水の入っていない小プールに座らせて、みんなで大声で「われは海の子」を歌った。その時の光景はまだ覚えている。↑ページトップ

080724 ちょっと散歩:本屋
 常勤でない気楽さからウイークデーでも街を散歩する余裕がある。とういより積極的に散歩しないと運動不足になる。よく行くところは天満橋の京阪CITY MALLである。7月16日に行って、絶対買わないと心に決めて、まず本屋ジュンク堂を訪れた。やっぱり誓いに反して4冊も本を買ってしまった。家の居室に置くところがなくなる恐怖感があるにもかかわらず、本屋へ行くとつい買ってしまう。
 我慢できなくて買ってしまうのは、後になってあの本を買おうと出掛けた場合に、該当本を探すのに相当のエネルギーと時間を費やすのがしばしば経験するからである。エネルギーと時間の浪費を避けるために買ってしまう。
 一旦買うと、安心して読まなかったり買った本の存在を忘れてしまうことがしばしばある。そのうえ、部屋が一層物置然としてくるが、買った方が我慢して買わなかった場合より心の安定感が相当にある。買わないと、しばらくは買おうかよそうかとくよくよする。それならば買ってしまおうと思う次第である。
 その日に買ったのは「信長、秀吉、家康の知勇、(河合敦著、永岡書店)、「江戸幕府260年の真実」、「新編 葉隠 (神子侃著 タチバナ教養文庫)」、「たった3秒のパソコン術」 (中山真敬著 三笠書房)、「日本の生きもの図鑑 講談社編」である。最初の2冊は歴史的事件や人物が図解的に書いてあって、面白い。この時代については小生も本を書けるほど相当に読んでいる。今回買った本は寝る前にちょっと目を通すのに適している。
 葉隠については「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の言葉で有名である。小生はどういうわけか、昔から佐賀県と聞くとまず「葉隠」の二文字が目に浮かぶ。前々から買うつもりであったが、今回買った本が一番読みやすそうであったから買うことにした。江戸・元禄時代に生きた佐賀藩の山本常朝の語録・回想録であるが、最近の殺伐としたマナーレスの時代に背骨を叩いてくれるような記述があって爽快である。
 生きもの図鑑は、目に入る動植物の名前をできるだけ覚えようと買った次第である。小生の持論は、物事への愛着は知る事から始まり、環境への愛着は目に付く動植物を知る事によって一段と高まるという事である。街や公園を歩き目に入る花や樹木、飛び交う昆虫、さえずる鳥の名前をできるだけ知りたい。
 「環境科学」という名の科目としては、小生にとって最終の講義を16日に行ったが、講義をやりながら目に入る外の景色の植物に名前を知らないものがあった。しゃべりながら内心愕然とした。毎週講義をやりながらそれに気付かなかった。まだまだ未熟であると反省し、その反動で図鑑を買ってしまった。身近な動植物の名前を知りたいと思う人にとって上記の図鑑は、ちょっと記載が足りないかも知れないが、十分に楽しめる本である。↑ページトップ

080721サミット:アジアということ
 
国連の常任理事国であり、最近は国内総生産も急上昇し、高値を持続している中国が首脳国会議の一員に加わる話も取り沙汰されている。日本はG8にアジアの代表として加わっているので、ただでさえ存在が薄くなりつつあるのに、中国が加わるといっぺんに中国に食われてしまうから、中国が加わるのには賛同できないという意見が聞かれる。
 小生はそれでも中国は首脳国会議の一員とすべきと思う。現在の政治体制には疑問があるが、面積、人口からみて世界の経済や安全にもはや無視できない力を持っている。インドと共に首脳国には入るべきである。
 中国、インドが加わって初めて世界が欧米色から脱却できる。世界の警察と自認している米国の力が低下したとはいえ、米国とその親戚筋であるヨーロッパが多方面に渡って強い発言力を持っている。国際的取り決め,例えばWHOなどの国連組織における取り決めは、メンバーに日本人が入っていても大枠は欧米の流儀や意見に集約されていく。
 その取り決めを自国より上部の機関のものと有り難がってそれに合わせて行く。例えばISO規格ができると、真っ先にその規格合格に合わせるのが日本である。現代文明の先輩国がリーダーシップをとるのは仕方がないがし、そうせざるを得ない面もある。しかし発言力が弱いと結果的に征服されるような立場になる。
 中国を信用できないと思っている人は多い。しかし、文化と文明の色と濃さが一番近いのはやはりアジアの国々である。日本人の賛同は絶対に得られないが、小生はユーロのように韓国、中国と同じ通貨にすべきと思っている。強くなったユーロをイギリスは使っていないが、わが国はそれを真似しない方がよい。国際通貨としての歴史が違うからである。
 アジアが一つになると中国の中華思想の餌食になるという危惧がある。といってこのままだと、中国自体も列強の草刈り場的存在になり、日本も中国の影を払拭できない弱い立場にますます落ち込んで行きそうである。
 中国もずるい。首脳会議のメンバーに入れろと言う力を持ちながら、一歩下がった立場にいて援助を受け、二酸化炭素排出にもG8より有利な条件を得ようとしている。要するに、メンツより得するものは得ようしている。
 このしたたかさをわが国も見習わなければならないが、そろそろ大国意識を捨てて、アジアの片隅で慎ましくやっていくように転換するのはどうであろうか
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080718 サミット:無駄の効用
 しかし、今回集まったG8+O5+韓国、インドネシア、オーストラリアの16カ国が排出する二酸化炭素は世界全体の80%に達するとのことである。二酸化炭素排出から見れば世界の一部の国だけとは言っておれない。
 世界の首脳が一堂に会する機会はそんなにない。国連主義と言っても、国連総会に出席するのは国連大使が主で、各国のトップではない。そのほか首脳が大勢集まるのは弔問外交である。この場合は突然であるので、あらかじめの下部機構による打ち合わせをしている暇がない。また、死亡した人が皇室であると、政治のトップより皇室関係の王族関係の出席者が多くなる。
 そういった意味で、首脳が一堂に会するのは悪くない。人の世の中は、話し合う場は多く在っていい。意思の疎通を図るのである。サミットはその機会を作っていると見れば納得できる。世の中、無駄が必要なのである。無駄の効用である。
 最近は近視眼的にちょっとしたことでも無駄遣いと目くじらを立てる傾向がある。ある程度の無駄があるから世の中丸く収まるのである。サミットの晩餐会で美味しいのを食べながら、食糧問題や飢餓対策を論じるのは矛盾していると指摘する人もいる。そのお金は税金ではないかと目くじらを立てる人がいる。ああ嫌だ嫌だ。ケチなこと言う人間が溢れてきた。そういうことに使われる税金なら小生は何も文句はない。
 それを指摘する人もレストランで美味しいものを食べているのではないか。それはポケットマネーだからいいと言うかも知れない。首脳会議で、昼の食事、夜の晩餐会の食費を各首脳から集めるようになったらこの世はもうお仕舞いだ。それこそ地球が温暖化するのと五十歩百歩だ。
 G8の首脳が集まっても、その中の意見がまとまるとは限らない。たとえまとまってもその意見がそれ以外の国の了解が得られるとは限らない。今回の二酸化炭素排出のルールがそうである。例え意見がまとまらなくても、意見を交わすこと自体に意味がある。
 大学で就職担当を長くやった経験がある。面接が決まっている場合はそれでいいが、行きたい会社の説明をしてくれる人、その会社の先輩などが状況を説明してくれる場合は、必ず直接会って話を聞けと指導した。直接顔を合わせて話すことは大事である。
 洞爺湖サミットに要した費用は600億円以上という。400万人のエイズ患者を救うことの金額に相当するという。三年前のイギリスのサミットの10倍の費用という。世界が円満に動くにはそれぐらいの費用がかかると見ようではないか。
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080717 サミット:盆踊り
 洞爺湖サミットに関する報道の仕方は、まるでオリンピックがあるが如くであった。お祭り騒ぎであった。会場や首脳が宿泊するホテルと部屋、交通規制の状況、プレスセンターの内部など、首脳が検討する内容より外回りのことが面白おかしく報道されていた。なにかG8サミットを日本でやることそのものに浮かれているみたいであった。
 主要議題としては「環境・気候変動・温室効果ガス」、「世界経済とくに石油・物価高」、「アフリカ問題とくに貧困・食糧問題」、「世界政治」であったが、どれも具体的な結論は得られていない。もともと結論を得るような組織ではないし、各国の行動を束縛できない。
 また、サミット反対デモに見られるように、裕福な一部の国で世界のルールを決めるのはおかしい。
 あっという間に過ぎた3日間のサミット数百億円がついやされた。当地は勿論、東京などで物々しい警戒態勢が取られ、交通渋滞が生じた。当地では警戒が厳しいので、サミット景気を目論んだけれど物が売れず、サミット不況であったと皮肉られた。
 オリンピックなら選手や応援団など大勢の参加者が見込まれるが、サミットは首脳と随行員、メデイア関係者ぐらいなもので金は落ちない。テロを封じるために警備が厳しくなればなるほど、地元とはかえって疎遠になる。今後はますますテロ対策に経費と人を配備する必要が出てくる。
 379億円かけて作ったメデイアセンターを、解体するとのことである。確かにサミット後は使い勝手が悪そうな施設である。
 相当なエネルギーを注ぎ込んでも、会期はたったの3日間で、G3首脳が膝詰め会議をするのは2時間ほどである。そんな短時間で素晴らしい成果が得られるなら苦労はない。もちろん首脳が会するまでに外相会議など別の会議や準備のための下打ち合わせ会合がある。根回しがある。すべてのおぜん立てが整ってから、首脳が会する。だからサミットが始まる前から、最後の宣言についてその内容が語られる。
 そのようなことは国連の場でできるのではないか。最終的な宣言には、「すべての国との共有を求める」(二酸化炭素排出)、「懸念を共有する」(物価高)など抽象的な結論しか出てこない。後は次回、あるいは国連でということであろう。
 このように考えると、サミットを開催する意味があるのか。費用対効果を見た場合、なんだか相当無駄なことをしているような感じがする。↑ページトップ

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も く じ
081001 須磨・舞子から淡路島へ
080929 学力ランク付けの意味
080925 恐怖政治の翳り1
080922 隠し撮り
080921 わが国は先進国
080917 瑠璃の光も磨きから
080912 オリンピックが終わって2
080911 オリンピックが終わって1
080910 テレビ番組雑考
080908 若の鵬事件2
080904 若の鵬事件1
080828 北京オリンピック:柔道の技
080827 北京オリンピック:柔道1
080825 北京オリンピック:開会式
080821 謝礼2
080819 WTO
080818
 インドと中国の力
080816 「8月15日」
080812 「8月6日」
080810 謝礼1
080805 大分県教員人事事件2
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080730 シティモで音楽2
080728 シティモで音楽
080724 ちょっと散歩:本屋
080721 サミット:アジアということ
080718 サミット:無駄の効用
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