071229 滋賀散策(5) 道の駅「伊吹の里」
 「道の駅」を知っていますか?車を持っている方々は知っているでしょうが、車を持っていない小生は、ドライブすることがまりないので、恥ずかしながら最近まで知らなかった。駅というから、定期バスの停留所になっていると思った。高速道路のPAの一般道路版みたいな存在だが、もう少し広い機能を狙っているようである。すなわち、「休憩」「情報発信」「地域間の連携」の機能を持ち、駐車場、トイレ、電話という基本的施設のほか、地域の自主的工夫のされた施設で構成されるものである。
 現在全国で850以上の駅が存在する。面白い存在であると思いつつも、経営収支がどうなっているか知らない者の勝手な想像であるが、広く経営状態を検討比較することで、今後の展開の目安が得られるのではないかと感じた。単純な情報発信では収入に結びつかないし、駐車場やトイレなどの基本的機能だけでは単なるPAと変わらないし、下手をすると単なる「箱もの」になってしまう。JRの駅との連絡や見本市、朝市の開催、インターネットの利用などいろいろの案が考えられる。駅の数が多いからネットワークができて既にいろいろな案が検討されていることであろう。
 賤ヶ岳の帰り道に「伊吹の里」という道の駅に立ち寄った。途中、小谷城、横山城のあったところを通過した。小谷城は浅井長政の居城で、最後に義兄の信長に滅ぼされたが、落城の折り、秀吉が長政の妻である信長の妹のお市の方と娘の茶々(後の淀君)、初(後の大津城主・京極高次の妻)、小督(こごう、徳川二代将軍徳川秀忠の妻)の三人を助け出したことで有名である。横山城は小谷城を攻める時に秀吉が陣取ったところである。
 これらの旧蹟を通り過ぎて辿り着いた「伊吹の里」の駅の横に(併設したような形)「伊吹野そば」という店があった。ここのそばはいい。JRの駅の立食いそばと違って、それを食べに来る客が並んで待っていた。このようなところにそのような現象は見られないと思ったのでちょっと驚いた。「そば」の味を誇る店は全国に多い。 小生もあちこちでそばを食べた。味は主観的なものだから、人の味の評価をとやかく言うのは意味がない。味が判別できるのと美味い不味いは別の評価である。そういった意味でミシュランガイドなんていらんお世話だ。エチオピアで食べた当地の主食インディラは美味くも何ともないと思ったが、エチオピア人は好んで食べる。日本に住むエチオピアの人が、本国から人が来る時、それを持参してくれることを心待して、持って来てくれるという情報を流して皆で食べると聞いたことがある。それでいいのだ。納豆みたいなものだ。「くさやひもの」もそれに近い存在かも。
 ということで、自分の好みを押しつけるつもりは毛頭ないが、小生が今まで食べて美味しいと思った「そば」は、山形、天童、出雲で食べたもの、静岡の実家の横にある「くろ麦」という店(ここはしばしば行く、インターネットで見ることができる)、それにちょっと毛色が違うが宮古島で食べた宮古そばがうまいと思った。「伊吹野そば」の味はそれらに匹敵する味であった。地理的に車がないとちょっと行きにくいのが残念である
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071228 滋賀散策(4) 近江八幡
 大阪・梅田にある阪神デパートで開店前に毎日行列ができる店が2つある。知らない人はこの列は何だと訝るほどの人数である。一つは上方の味「神宗」である。本店は淀屋橋にあり、その他数カ所あるが、一番並ぶのは阪神デパートである。大阪の交通のもっとも要に位置しているからであろう。
 小生はここの塩昆布が好きである。並ぶ人の多くの人の目的は「お徳用塩昆布」を買うことである。切れ端を標準品のパックより量を多くして売っているもので、標準品より細切れになっているが味は全く変わらない。家で食べるならこのほうがトクである。確かにここの商品は上手い。もっぱら塩昆布を買っているが、みやげに持っていくと大抵高評で、親戚からはときどき注文を頼まれる。大阪には昆布屋の老舗が多いが、神宗のものが一番好きである。年末になって正月用品を求めるせいか、今の行列人数は半端じゃない。開店時間に行ったらもう並ぶのがいやになるほどである。
 もう一つの並ぶところは、バームクーヘンのたねや・Club Harieである。神宗は製品供給に限りがあるから、ある時間になると「お徳用」は売り切れて行列が無くなるが、バームクーヘンは現場で次から次に作って供給できるから、行列は途切れることなく、一日中並んでいる。たかがバームクーヘンで何故並ぶのかわからず、物好きな人もいるものだと思っていた。
 この店は滋賀県が本拠地で、近江八幡にある日牟禮ヴィレッジのClub Harieが本部格の店である。訪れた時は、今まで通ってきたところの風景とは異なるオシャレの空間に足を踏み入れたという感じであった。予約してあったヴォ−リズ建築内の特別室で寛いだ。レトロ調の趣がある大変リラックスできる雰囲気があった。ここでバームクーヘンを口に入れて、初めて阪神デパートに人が大勢並ぶ理由がわかった。バームクーヘンは本場ドイツを含めて何回も食べているが、こんな美味いのは初めてであった。口の中でとろけて鼻の奥から頭に抜けるような香りがある。時間があれば今度は阪神デパートで並んでみよう。
 バームクーヘンの他のケーキも美味しかった。このヴィレッジ全体の雰囲気は、日光の日光不動苑にある明治の館に似ている。そこは日光東照宮の近くで、日光観光と結びついている。日牟禮ヴレッジも近江八幡の水郷と一体化していることがわかった。ヴィレッジを出て八幡神社にお参りをし、八幡山に登りたいのを時間の都合で諦め、近くの水路に出た。
 水郷は潮来や柳川も見ているが、今まではあまり関心がなかった。歳を取ったせいか、今回は水辺が長く続く風景として大変好ましく感じた。潮来や柳川にもう一度行く機会を持ちたいと思う。近江八幡はこのコラムで古い水道があったところと述べたが、歴史あり、美味しい食べ物も味わえる良いところである。
 近江八幡といえば、豊臣秀次と近江商人を思い出す。秀次は秀吉に殺された頃の不行跡が語られることが多いが、近江八幡を築き治めた時にはいろいろと住民向きの行政を行ったので、この地では今もって親しまれているようである。近江商人については、近江商人語録というのがあるが、「陰徳善事」というのがある。目立つことを考えずに、人知れず人の為になることをやれということであるが、目立ちたがり屋ばかりのこの頃、近江商人の心構えを見習って欲しいものである。↑ページトップ
071226 聴講記 菜の花エコプロジェクト
 もう一つの講演は東近江市あいとう野村正次氏(エコプラザ菜の花館)「孫子安心の地域づくりを目指して−資源循環型地域モデル「菜の花エコプロジェクトの取り組み」−」で、滋賀県の旧愛東町から始まった環境活動の話である。
 わが国では琵琶湖の水質保全対策から無リン洗剤が普及した。しかし、無リンの合成洗剤が普及したため、廃油の捌け口がなくなった。そこで再生可能エネルギーとしてのバイオディ−ゼル燃料にすることに転換し、さらに菜の花エコプロジェクトを立ち上げ、菜の花から燃料、食用油を得るとともに観光や地球環境対策に貢献しようとする手作り的運動の紹介であり、具体的にどれほどの効果か数値的な話はわからなかったが、大変興味のある話であった。
 童謡「朧月夜」に「菜の花畑に入日薄れ・・」という歌詞がある。小生の好きな歌、歌詞である。高野辰之の歌詞で、小田急沿線の代々木八幡付近の情景をうたったものらしい。マライア・キャリーも歌っているし、中島美嘉もすこしアレンジして「朧月夜‐祈り-」という題で歌っている。小生もカラオケで歌う曲の一つである。 小生の大学生の頃、菜の花が咲くころ東海道線に乗ると岡崎から豊橋の間で列車の窓から田んぼ一面に菜の花がきれいに咲いていて、しばし景色を楽しむことができたことをよく覚えている。菜の花は沖縄を除いてどこでも栽培可能らしく、北海道や青森県が盛んとのことである。
 菜の花プロジェクトで油や燃料が得られるということのほかに、@農業に新たな展望、A特産品ができるというコミュニティビジネスが生まれる、B道の駅と連動した相乗効果、C住民の環境意識の高まり、D廃油という厄介者を主役に、E住民が目標を持ちそれに向かって新たな連携軸が生まれる、F菜の花活動を通じて情報の発信源となるなどの効果が生まれたとのことである。今後の課題も提起されたが、このような地域発想の地域自立の試みが一層広がることを期待したい。なお神戸のルミナリエより電球の多いディスプレイが8月に旧湖東町で行われるとのことである。一度見てみたい。
 最後に本講座全体を通しての受講生からの意見を伺ったが、いろいろと今後の参考になる有用な意見が得られて大変よかった。講座全体に対しては良かったとの意見が多かったが、小生も、開催するほうの立場で我田引水になるかもしれないが,各講師の先生の講演が素晴らしかったことと運営委員の組み立てがよかったことが良い結果に終わった原因である。現地見学、特に淀川のワンドの見学が好評であった。また何をもって良い環境と判断するかという出発点でもあり終点でもあるところが良くわからないという意見が多かったが、その完全な理解は永遠に得られないかもしれない。判断基準は各自にあり、実際に行動する時には近似解に基づくほかないであろう。↑ページトップ
071225 聴講記 生態系のこと
今年度最後の講座(12−8日)に出席した。いつもながら大変参考になる講演であった。最初は前迫ゆり(大阪産業大学教授)の「生産者としての植物の生態」−地域生態系の保全を考える−であった。緑化の意味、緑という普通の光景が普通でない場合が多い。それは緑を構成する種がそこにもともと存在していないものが多いからであるという説明から始まり、種の多様性の意味と価値についての説明と見解があった。ある生態系の生物種の数の評価は難しい。このことが評価できれば環境評価が非常に容易になるが、多分それほど簡単にはできないだろう。
 環境要因、食物連鎖、種内関係、種間関係などの説明があった後、生物多様性条約(1992年地球サミット)は遺伝子、種、生態系の観点から捉えて多様性を保全するとの説明があったあと、生態系サービスの話があった。生態系サービスは比較的新しい言葉だが、生きる者あるいは生態系が人間にもたらしてくれる利益や恵みのことで物質の提供(生態系が生産するモノ)、調節的サービス(生態系のプロセスの制御により得られる利益、文化的サービス(生態系から得られる非物質的利益)に分けられる。生態系サービスに生物多様性が関係してくる。
 ただ気になったのは文化的サービスで人が大勢集まる、ひいては経済的効果もあるという話があったのは、環境も人の経済的活動で評価することになり、結局人中心の環境保全かという疑念が生じた。現在はお祭りは観光的要素に組み込まれていて、人が神に額ずくという雰囲気がなくなってきた。環境保全に文化をあまり重視すると、人のために(人の歴史も入れて)環境があるということになりかねない。生態系のことがよくわからないので、善として出発したことが、結果は悪になるということがあるということには同感であり、環境問題にはそういうことが多い。
 なお序に言わせてもらうと、シカの問題が取り上げられたが、水道に関係する者にとっては全く別の観点がある。北海道のキタキツネとエキノコックスの関係と同様に、シカは人に対する病原体を多くもっている動物である。神様に仕えている動物だからアンタッチャブルのところがあり、シカの住んでいるところに降った雨が水道原水に流れ込むような場合は、水源対策はできないので,浄水処理で対処するほかないという事実である。
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071220 滋賀散策(3) 余呉湖
 賤ヶ岳の北北東の麓に余呉湖が、別称の"鏡湖"のように景色を水面に映して神秘的に水を湛えている。周囲およそ6kmで、サイクリングに適している。琵琶湖より49m水面が高く、面積1.8Km2、平均水深7.4m(最大13m)の富栄養湖である。この程度の水深なら富栄養化しているのは当然で、それが鏡効果を生んでいる。
麓寄りの一体は「静かな湖畔」の趣が一層濃い。1977年に水処理生物学会が長浜で行われた時に、岐阜県庁の南部君らと一度訪れたことがある。その時の好印象もあり、もう一度来てみたかった。賤ヶ岳からの湖の姿も良かったが、目の前で見る湖は期待を裏切らなかった。
 この湖を知ったのは新聞に連載された水上勉の「湖の琴」を読んだ時である。余呉湖を舞台に、若狭からで稼ぎに来た娘「さく」と糸作り職人「宇作」との悲恋物語が、彼独特の運命に流される女性がもの悲しく描かれている。最後に宇作はさくの死体とともに余呉湖に沈んでいく。灰色の背景が目に浮かぶような寂しさと切ない恋の流れに引き込まれて読んだが、最初はその舞台を見たいと思って訪れた。その時の印象から再度訪れてみたいと思っていたがその機会に恵まれた。
 もう一つこの湖に引かれるのは「衣掛柳」である。すなわち天女が舞い降りて、柳の枝に掛けた衣を隠すといった羽衣伝説があるからである。羽衣伝説は日本各地にあるが、最初がこの余呉湖のもので、もっとも有名なのが清水(今の静岡市)の三保の松原のものである。静岡市は小生の生まれ育った所であり、三保の松原には何度もいっている。そこから見る富士山とその背後の山の日本平から見る富士山が、富士山が一番きれいに見える所と思っている。羽衣伝説のもっとも有名な地の出身者として、伝説の最初の地に興味があった。余呉湖の伝説では天女から生まれたのが菅原道真ということになっている。湖畔に国民宿舎があるが、一度そこに泊まって湖畔をゆっくり散策したい。↑ページトップ

071218 滋賀散策(2) 賎ヶ岳と秀吉
 
滋賀県は戦国時代から徳川家康時代にかけてのいろいろの争いの歴史があり、つわものどもの夢の跡を散策するのは楽しい。長浜、姉川を経由して賤ケ岳へ行ったが、長浜は秀吉が最初に城主になって城を作ったところ、姉川は信長、家康連合軍と浅井、朝倉連合軍が争った姉川の合戦で有名な川であり、信長が天下人になるべく大きな一歩を踏み出した所といってよい。そのようなところを通り抜け賤ガ岳のふもとにたどり着いた。
 そこからケーブルで中腹まで行き、ケーブルを降りてから頂上まで約400mを歩いて登った。結構いい運動になった。頂上から見る景色は素晴しかった。左に北琵琶湖、右に余呉湖が見渡せる。紅葉の木立に囲まれたきれいな空気の中で腰を落とし、しばし水と緑と紅色のパノラマに見惚れていた。振り返れば木之本市の平野部を北国街道が岐阜に向かって遥か彼方まで視線を辿ることができた。
 この街道は賤ケ岳の合戦の折り、秀吉が岐阜から急遽引き返したことで有名である。この「大返し」は秀吉が本能寺の変の直後、備中高松城から居城の姫路まであっという間に引き返し、さらに山崎まで攻め上った「中国大返し」に匹敵する迅速な行動であった。街道の農民に頼み、夜中に松明を焚いて街道を明るくし、炊き出しによる握り飯を用意させた道中を、相手の予測をはるかに上回って速く大軍が帰陣し、機先を制した。その結果、秀吉は相手の柴田勝家軍に勝利し、天下人の地位をほぼ手中に収めることができた。この合戦でもう一つ有名なのは、賤ケ岳七本槍である。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟谷武則、片桐旦元のことで、この合戦で活躍した子飼いの小姓群である。七人は語呂合わせ的なとこもあり、目覚ましい活躍したのは彼らだけではないが、成り上がりでもともと家来の武将がいなかった秀吉が宣伝したために有名になったようである。
 秀吉子飼いというより正妻の"ねね"(後の高台院)の影響を多く受けた武将が多く、そのため関ヶ原の合戦では糟谷以外は家康の東軍についた。"ねね"は家康側に旗を振った。加藤清正や福島正則は家康派というより反石田三成派であり有力な大名であったが、豊臣家への恩義を捨て切れないので徳川幕府には目障りであったため、両家とも結局は潰された。七人のうち幕末まで残ったのは加藤(嘉)、脇坂、平野の三家だけである。
 こんな古い話を記したのは、今の学生はこの時代の話をほとんど知らないのでちょっと記して見ようと思ったからである。地元ではケーブルの乗り場には七人の幟が立っており、頂上には合戦に疲れた武将の像があった。この像はあまりいただけないが地元の人にとっては、おらが祖先なのであろう。
 頂上で感じたことは、なぜこんな山の上で争ったのかということである。山を登るのに手ぶらでも汗をかき、疲れた。甲冑を身に纏って刀槍を着けてなぜこんな苦労して登ったのかと疑問に思った。山にいる敵部隊を無視して平地を固めて、孤立させればよさそうなものである。戦略を知らない小生の誤った感想かも知れない。小生は歴史と景色に誘われて登ったが、賤ケ岳はこのような歴史に関心がなくてもその景色だけでも見るだけの価値がある。ところどころちぎれた雲が流れる琵琶湖と眼下の神秘的に佇む余呉湖、二つの湖を同時にキャンパスに入れることができる景色は素晴しい。
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071217 滋賀散策(1) 大津ー近江八幡

 用件があって滋賀県東部の数箇所を訪ねた。滋賀県は今までは琵琶湖,大津市に公務で,三井寺,彦根城,余呉湖に観光で訪れたことはあるが,平野部をゆっくり訪れたことは無かった。立命館大学草津キャンパスで教鞭をとるようになったのを機に,人々の生活する場所として滋賀県を見てみたかった。今まで見えなかったものが見えてくると思ったからである。
 一昨年、野洲川の油汚染に関して出来た委員会の委員長を引き受けて野洲川を視察したとき,琵琶湖に注ぐ川にこんな大きな川があるかとびっくりした。いかに不勉強であったかを痛感した。琵琶湖が大きいのでそれに目が奪われて,そこに注ぐ川は跳び越すことができる程度の小川だけかと思っていたのである。新幹線から見る川はあまりにも断片的でイメージがわかなかったのである。
 今回大津から余呉湖まで車で訪れた。まず感じたことは滋賀県は思っていたよりも平野部が多いということである。田園風景が美しい。コスモスが植わっていた所が多かったせいかもしれない。花が両側に咲いた田園地帯の道路を走るのは気持ちいい。菜の花が咲くところも多いとのことであるが,その季節にも走ってみたい。
 昼食は近江八幡にある毛利志満(もりしま)という店でステーキを食べた。近江牛が旨かった。こんなに近江牛がこんなに旨いとは予想しなかった。今までに食べた肉のうちで一番旨かった。今まで全国で松阪,神戸,前沢(いずれも但馬牛の血を引いている))をそれなりの店,たとえば東京と松阪の和田金,で食べた。もちろん大阪や神戸では何度も肉料理を食べている。今まで旨いと思った肉は,食べ物がまずいと言われるイギリスのロンドン郊外で食べたステーキと鹿児島市のさる宿で食べた角煮であったが,毛利志満で食べたのが一番であった。口に入れたらジワーと肉が溶けていく感じがする。最近は肉を食べるのは環境問題から見てよくないと思い始めているが,その考えが一時的に打ち砕かれた。
 そのときメニューの裏に清水次郎長の名前が書いてあったのには驚いた。明治時代に毛利志満が東京に出店したが,肉を東京に送るときに山賊に奪われるのでそれを次郎長一家が守ってくれたと記してあった。旧東海道には山賊・追剥が出るので有名な宇津谷峠(静岡市の西)があり,清水は今の静岡市の清水区であるから,宇津谷峠付近は次郎長の縄張りであったのであろう。そこで清水一家が護衛したのであろう。その峠のさらに西,金谷と掛川の間に日坂(にっさか)峠があり,そこも同様な危険地帯であったからそこでも彼の助けが役立ったかも知れない。日坂峠は「小夜の中山夜泣き石」で知られている。
 清水次郎長は日本で最初に英語塾を開いたと言われる。また幕末の薩長・幕府間の争いで,清水港のある折戸湾に死体がたくさん打ち上げられた時,幕府軍の死体が放ったらかしになっているのを,死人に敵味方もないと死体を集めて弔ってやったことでも知られている。いわゆる義侠心があったので,今でも知る人ぞ知る侠客である。でも所詮やくざはやくざであり,賭博とショバ代が主収入源であったはずで,毛利志満を護衛したのは男気でしたのであろうが,それなりの謝礼は貰ったであろうと想像した。「またまた亀田」で記したように警察以外のアウトロー組織が治安を担っていた例であろう。
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071212 無駄なテレビ番組
 テレビの政治トーク番組、例えば「たけしのTVタックル」を見ていると、お互いが認め合ったり、意見を持ち寄るということはほとんどない。時間の制限もあり、そこまで達しないのであろうが、国会の場でも同様であり、話し合いといってもお互いに譲歩することがないので結局は投票によって決めることになる。
 大学の教室会議のように上下関係が薄い場合は意見が対立するといつまでも意見が平行線をたどり、感情的な対立までに発展する場合がある。学会のように委員が外部から集まる委員会になると利害が深刻に絡まなければ結論は比較的早く落着くところに落着く。
 国政の場では票に繋がるから利害が決定的に絡むのでとことん言い合いをするほかないのであろう。ということは、一度意見を聞いてしまえば後は何回聞いても同じ事だからもうさらに聞こうとするのは無駄である。
 上記のたけしの番組の3時間特集を聞いたが、今まで聞いたものからの進展は全くなく、今に新しい意見が出たり、合意し合うところがあるかを気にしながら見ていたが、結局いつもの平行線で終わった。聞き終わってから時間を無駄にしたと思った。
 テレビ番組でつまらないものの一つにタレントの結婚式や離婚を扱ったものがある。プライベートのことを、たとえ有名人でも取り上げる必要はない。誰が結婚しようが離婚しようが知ったことではない。それを何か国の一大事のように放映する。本人もそれを承知で式を上げたりインタービューに答えている。人気浮揚に役立つことを承知でテレビを利用している根性が気に食わない。なにもわれわれに潤いを持たしてくれるものではない。井戸端会議のテレビ版にすぎない。公器の無駄遣いである。もっとも隣近所のうわさ話は実害を伴う可能性があるから、周りの誰も傷つかない雑談の種を提供するという効果はある。
 もう一つ気になるのは、スポーツ番組で特定の人を異常に持ち上げることである。たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアーである。確かに格好よく、人気があるのはわかるが、彼女等だけしかいないような報道の仕方である。どの組が優勝して、どんな顔をしているかも知らない。石川遼が出れば彼のプレーばかりが取り上げられ、そのとき誰が優勝したのかわからない。宮里藍しかり、浅田真央もそうである。不動裕理が全盛のころ彼女の成績にふさわしい取り上げ方はされなかった。見てくれのいい有望株が現れるとそれを報道する、そうすると人気が出る、そこでそれらを中心にして報道をするといったパターンが定着している。スポーツ報道は結果を中心にして伝えるのが本筋である。特定な人を煽る必要はない。若い選手はそれにつられて生意気になっていく。見たくなくなる。有望な選手達はテレビ出演なんか考えずに(インタビューもしなくていい)自分の実力を伸ばすことに集中すべきである。もっとも有名人になるためにスポーツをやっていると思われる選手が多いこの頃ではあるが。テレビの影響力が強い世の中の赴くところか。
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071211 対価が不公平だ
 防衛省の汚職事件が明らかになりつつあり、奥さんまで逮捕されるとはすごい。防衛省の課長以上の奥さんを集めた「美鳩会」を仕切っていたとのことである。職場単位の奥様グループができるのは防衛省だけでなく民間会社でもある。外国では同じ会社の駐在員単位と外交官を含めたその地域単位の集まりがある。国、会社の序列、駐在年数などで奥様方の序列があり、何かの催しがあると下位ランクの奥様は大変と聞く。女性特有の問答無用の支配力といじめがあり、それが嫌で海外に同伴で行くのを嫌がる奥様もいると聞いたことがある。美鳩会も多分内部はドロドロしたもので、そのトップにいた人は主人よりも君臨度が高かったのではないかと想像される。
 ところで、このような汚職事件が報道される度に、「税金の使われ方」という言葉をニュースキャスターやアナウンサーがよく使う。税金の無駄使いはとんでもないことであるが、不合理な無駄遣いは税金だけであろうか。われわれの汗の結晶であるおカネでものを買う時に、正当な値段で買っているであろうか。また同じ汗の量で得る対価は正当な誤差範囲でもらっているだろうか。
 市場原理で売り手と買い手の合意で決まるから外部のものはとやかく言う必要はないといえばそれまでだが、市場原理至上主義にどうも納得できない部分があるように思える。たとえば、アメリカ大リーグの選手で一年間に何十億もらう選手がいる。松阪が移籍する時にすごい大金が動いた。しかし、彼等にそれほどの価値があるだろうか。
 棒と玉とグローブを扱うのが上手いだけで、特に生産をしているわけではない。われわれのできない遊び技を見せてくれて、われわれに高度の娯楽を与えてくれることや誰でも知っている有名人である事は確かである。俳優などもそうである。しかし彼等の得ているカネが彼等の価値を表しているとして、それをサラリーマンが会社でそれなりの事務をこなす作業、米を作る農作業、0.1ミリも狂わない旋盤作業など、われわれが働いて得るカネと比較した場合、相当の差があるが実際にそれほどの価値の差があるのだろうか。
 野球の場合(他の競技でも)、超一流でも数億円/年ぐらいの絶対価値である。それ以上高いのは球団と選手の交渉で決まるから傍が口出す性格の問題ではないと一見思えるが、球団は入場料の収入から払っているから、選手に払う金を少なくして入場料を安くするべきと考える。
 高くしてもお客が来るからそれでいいというのはちょっと庶民感覚からずれる。庶民は限られた収入から選択して娯楽に金を出しているのである。切符が売れる金額で、たとえ高くても、入場料を設定すればいいというのではない。野球選手は、例として出しただけで、「税金の無駄遣い」と同様に民間ベースの「料金の搾取」がまかり通っているのを指摘する人がいないのは不思議である。
 大阪府知事が講演して50万円ほどの謝礼を貰っているのが話題になったが、名の売れたタレントやいわゆる有識者はそんな半端な講演料ではない。そこで話される内容はその金額に相当しない。ただ有名料で多額の講演料を得るのである。たとえば大学でそのようなケースがあった場合、その金の源は授業料である。価値から判断した場合、授業料の無駄遣いと文句の言う学生がいても不思議ではない。
 大阪府知事の場合は金額の問題でなく、相手が府と仕事の受注関係があるのに、金の遣り取りをするのが良くなかったと思う。生物反応は一般にATPという物質のエネルギーを介して行われる。ATPは生体反応の貨幣に相当する物質である。反応に必要なATP量あるいは生成するATP量は決まっている。有名であるとか先物買いとかいったこととは全く関係なく、一定の反応に関与するATPは厳密に決まっている。われわれの社会活動でもそのような評価方法があればいいと思う。↑ページトップ
071208 謝罪の効果
 朝青龍も亀田も誰に謝罪したのだろうか。最近、役所や企業の不祥事で謝罪会見ばかり見ているので、どうしてもそれらと比較したくなる。それで謝罪になっているとかなっていないということが話題になる。
 行政の謝罪は、直接に迷惑をかけた相手、税金を無駄使いしたなら納税者全体あるいは納税者に不安を与えたことに対する謝罪であり、企業の場合も迷惑をかけた相手、消費者・利用者への不安に対する謝罪であるから、謝罪会見で下げる頭の傾斜角度は、本心は別として、深い。民間の場合は謝罪の程度がその後の営業に直接響く。
 朝青龍と亀田の場合は処分が決まってからの謝罪だから気楽である。今後勝ち続けることができれば、何も困らない。収入も減らない。ちょっとそれらしい態度を見せればころりと今までのことは忘れて、かえってかわいそうという雰囲気さえ出てくる。今回の横綱審議会や豊後大野における観客の態度をみればわかる。朝青龍の場合は名古屋場所直後の地方巡業を見に行く予定をしていた観客と迷惑をかけた協会への謝罪である。強いて言えば品格を落としたことに対する相撲フアンへの謝罪である。
 それならば、横綱審議会ではもっと本質的なことを突っ込んで議論してもよさそうだった。何故そうなったか、国民性の違いがどれほど影響したのか、それを埋めるにはどうしたらよいか、ペナルティー期間中の態度の評価の仕方などを検討する気がないのなら、あの程度の謝罪で十分である。あやふやの中に丸く収めるわが国の特徴によく対応しているからである。
 亀田の場合の謝罪相手は対戦相手の内藤選手であろう(それは済んでいる)。その時の観客とテレビを見ていた視聴者への罪はどれぐらいあるかわからない。反則したことへのペナルティ−は判定上に評価され、リンクの上で片付いている。直接迷惑をかけた対戦相手に対してもスポーツの場合案外どの程度の謝罪が適当か判断は難しい。
 野球で、内角を攻めるのは通常行われている。相手を怖がらせる手段である。意識的に死球にすると退場宣告を受けるようになったが、死球になるのは相手を怖がらせる行為がたまたま相手に当たっただけで、当たらなくても反則と同列の行為である。未必の故意である。そうでなくて、投手の手もとが狂って球をぶつけた場合は、相手に帽子を取って謝ればそれで済む。マラソンなどの直距離を走る時、横を走る選手を自分の腕を横に振って意識的に邪魔をすることはよく行われている。柔道で、寝技で抑え込まれたとき、下から噛みついてやれと言った人がいた。相手を邪魔することがある範囲で認められている競技で、反則になるかならないかの境になる行為はよく見かける。あとは審判に任せるほかない。
 このように考えると、朝青龍と亀田の謝罪会見が大々的に報道されたが、よく考えるとそれほどのものではない。話題性が高かったからマスコミが力を入れたのはわかるが、騒がれたほどの中身のあった出来事ではなかったといってよい。野球で死球を与えた場合、昔はプロでも手もとが狂って死球を与えたら謝っていたが、アメリカのプロの影響で最近は高校野球でなければ帽子を取って謝る光景は見られない。死球を与えれば一塁に行けるという利点を与えるから、それでマイナス行為は帳消しで謝る必要がないというのがアメリカ流である。この流儀がわが国においてスポーツ以外のいろいろな場面に広がってきた。感心しない風潮である。一般的にちょっと謝れば丸く収まるのに、自尊心に邪魔されて角が立つということが多々ある。謝罪については、誰に、何のためにということのほかにその範囲と程度そして効果の予測をして行うべきものである。もっともその判断が難しいのであるけれど。↑ページトップ
071207 またまた亀田
 先日電車に乗っていたら、数人で乗った小学生グループが騒いで周りにあまりいい印象を与えなかった。注意しようか迷った程の態度であった。男の子があっちに行ったりこっちに来たりで落ち着きがない。その時思い付いたのは、このような時に亀田みたいのが居たらいいなということである。声も出さずに睨み付ければ相手が震え上がるであろう。また別の日に同じ路線で、ちょっと服装が乱れた男性が自分の横に荷物を置いて、二人分の席に一人で座っていた。そこにある年配者がそこに座りたいと言って荷物を片づけるように要求したが、大きな声を出して遮り、混んできて通路に大勢立っていても席を空けなかった。自分を含めて誰も注意する雰囲気ではなかったが、この場合も亀田なら相手を震え上がらせることができたのではないかと思った。
 戦後、ヤミ市などの治安はやくざが担っていた時期があった。神社のお祭りや縁日の取り仕切りを香具師がやっていた(今もそういうところがあるかは知らない)と聞いている。小生の大学生時代は大学祭の催しにも「組」が関与していて、東京大手のM大学の応援団長をしていた小生の友人はそのトラブルで銀座において日本刀で後ろから切りつけられて怪我をした。
 あまり感心したことではないが、今のような戦後直後に匹敵するおかしな時代では、その特殊技能によって行政や庶民にはできない仕切りを特殊の人に任せざるを得ないかもしれない。ただし、その特殊人は庶民に害を加えないことが前提であるが。亀田大毅の謝罪は謝罪になっていない。あんな言葉と表情ではダメである。誰かが指摘していたが、あのような調子で親に謝ることができるか。多分あの怖い親にあの調子で謝ることはできないだろう。親に謝ることができない仕方で謝罪会見しても謝罪にはならない。ただ彼の場合、そのようなことを理解できないだろう。試合直後の謝罪会見の時のうな垂れ姿から、もしかしたらいっぺんに普通の子に戻るかも知れないという少しの期待はあったが、やはり悪ガキは一向に変わっていなかった。
 残る道は悪役に徹することである。悪役で成功するには勝たなければならない。マスコミや皆に叩かれようが勝っていれば、その強さに批判が消される。もう一つの道はその怖さを、普通の人ができない凄みを日常のマナー違反者に向けてもらうことである。小学校に行ってどうしたら怖い顔ができるか教える手もある。小生ももっと前に、学生の私語を黙らせる顔付を教わっておけばよかったと思うが、教わっても実践できた自信はない。↑ページトップ
071206 またまた朝青龍
 今年の九州場所は白鵬の優勝で終わったが、12勝3敗が示すように締まらない場所だった。とくに白鵬が千秋楽最後の一番で敗れたのがいけなかった。やはり朝青龍が居ないとダメなのか。彼は優勝が決まってもしっかり最後は締めていた。いっときは白鵬もいい勝ち方をしていたが、今場所は、何とか帳尻を合わせるような、スケールの大きさを感じさせない勝ち方だった。朝青龍のような強さは感じられなかった。朝青龍の土俵態度は、悪く言う人もいるが小生にとっては許容範囲である。睨みつけるのは彼だけでない。今度の事件さえなければ、土俵外のことは異国に慣れきれないためと見過ごすこともできた。横綱だから全てに日本の作法にしたがわなければならないという程の頑なさは小生は持っていない。懸賞金の受け取り方はあの程度でもいいと思う。
 懸賞金を受け取る「手刀」は名寄岩が良かった。双葉山時代の名大関である。けれんのない取り口と相手が故意に待ったをすると真っ赤な顔をして怒る純情さで大変人気があり、出身地の名寄市には銅像が立っている。大関を怪我で二度陥落してまた関脇まで戻った。40歳まで取ったがその頃はやっとちょんまげ(おおいちょう)が結えるくらいに禿げてきていた。その時に聞いたような気がするが(ちょっと自信がないが)大相撲の関取(十両以上の力士)はちょんまげが結えなければならないから、ちょうど引退するによい時期だったと聞いた覚えがある。そうだとすると、11月27日にテレビでモンゴル相撲を見物していた朝青龍はおおいちょうが結えないほど短髪にしていたように見えたが、日本に帰国し、謝罪会見を見たら髪の長さは大丈夫であった。それぐらいのルールは知っていたと思われる。
 謝罪会見については世間では納得派と批判派が同じ程度の比率であったが、小生の印象は、同日に亀田大毅の謝罪を見たせいか朝青龍葉も成長したなという感じであった。どこかで怒りを爆発させて問題を起こすと危惧(期待?)していたが、無事こなしたといった感じである。モンゴルでの夜のご乱行については、イカサマ新聞ということで済ませた。相撲協会が問題視するなら、現地に行って徹底的に調査をすればわかるはずだが、日本のマスコミを含めて、今更調べてもといった思いで無視するようである。今の大相撲が朝青龍頼りであるということには逆らえないということであろう。
 今度の九州場所がつまらなかったことが、朝青龍への風当たりを弱めたといってよい。全力士がもっと火花を散らすような取り組みをすれば、わが国に慣れきれないというか不良外人一歩手前の朝青龍に頼らなくてもいい。引き技や横っ飛びのかわし技が多すぎる。今場所の千秋楽で、解説者の舞の海に息が詰まると言わせたすごい押し合いの勝負が、2番あった。3日前の白鵬が千代大海に勝った勝負もよかった。引き癖のある千代大海が珍しく負けても最後まで攻めていた。あのような相撲を全力士が取れば朝青龍は要らない。病欠届を出してサッカーに興じる姿は、防衛省高官がゴルフ接待を受ける姿と重なり、嫌悪感を抱かせるものであるから、テレビの視聴者の心を穏やかにするために、どうせ謝罪するなら土下座すればよかったと思う。あまりにも時代がかっているかもしれないが。
 これを書いている時、たまたまテレビで、帰国直後の朝青龍と白鵬の地方巡業での取り組みを映していた。約4か月のブランクがあるから白鵬の圧勝と思ったら、情けなくも白鵬が負けた。無理して怪我をすることを避けるためか、華を持たせたかわからないような取り口であった。これだから朝青龍に引退してもらうことはできない。世界にはもっと強い人がいるかもしれないが、少なくとも国技館の土俵に上った人の中では彼が現在世界で一番強いからである。関取としての貫録も彼の方が上に見えた。↑ページトップ
071204 名刺の効用 
 稲尾、高倉、仰木、豊田、中西、大下、関口などが在籍していた時は西鉄ファンであった。一番好きであった大下弘は東急フライヤーズから移籍した選手で、赤バットの川上、青バットの大下と言われたように、終戦直後のプロ野球を代表するホームランバッターであったが、小生の故郷静岡を第二の故郷としていてみたいで、小生の母校によくバッティングをやりに来た。
 当時甲子園出場の常連校であった静岡高校のエースが何処でも好きな球を投げろと言われて一生懸命に何球投げてもほぼ全部ホームラン性の打球を軽く(そのように見えた)打ち返していたのを覚えている。名監督三原脩が「プロ野球から打者を5人挙げるなら王、大下、川上、中西、長嶋だが、一人選ぶなら大下だ」と言った。彼は西鉄を辞めて東映フライヤーズの監督になったがサインなし、罰金なし、門限なしの「三無主義」で最下位になりクビになった。
 これが示すように快濶豪放で面倒見のいい人で知られていた。いまどき三無主義では勝てないと思うが、小生はその発想は好きである。要するにプロなら自己管理である。サインがなくてもプロなら咄嗟に最善の策を自分で考えろ、だからプロである、前の日に飲み潰れてもバットを振ればホームランを飛ばせ、それぐらいの実力を身につけておけ・・というのが彼の流儀であったと思う。事実そのような日常生活であったらしい。しかしこっそり練習はしていた。それを三原が見抜いて、大下にそれを告げても黙っていたが、大下が病気で倒れて臥せた時に聞いた時に初めて「そうです」と答えたというエピソードが残っている。
 閑話休題、小生は、王、長嶋以外は今の学生が知らない人のこのような古いことは詳細に覚えているが、最近は物事をよく忘れる。10年ぐらい前の出来事あたりから詳細な情報に関する記憶はとぎれとぎれになり、最近は挨拶したばかりの人の名前をすぐ忘れることもある。だから、国会の証人尋問で証人が記憶にないとか忘れたと言っているのをマスコミ関係は知っていてトボケているのではないかと疑うように報じるのが常であるが、報道している若手と違って年寄りは本当に記憶にないこともあろうかとおもうのである。以前はもらった名刺は必要時に住所を見る時に使ったが、最近はついさっき交換した人の名前を確認するために使う.。↑ページトップ

071203 稲尾投手のこと
 最近、物忘れが激しい。講義中に飛行機のライト兄弟の名前が出てこなかった。
生物の歴史でも本に書いてあるのが正しいとは限らない。コレラ菌の発見も一般にロバート コッホと言われているが、もう彼の30年前にイタリアのフィリッポ パッシーニが発見していたことが文献ではっきりしていると述べたついでに、欧米中心に語られている歴史の記述が必ずしも正しくないという例で、誰が最初に飛行機を飛ばしたかというときに、ライト兄弟の名前が出てこなかった。ブラジル人のサントス・ジュモンは覚えていた。距離は短くてもエンジンで空を飛んだのは彼が最初である。サンパウロにある彼の記念館に訪れたことがある。ブラジルの大勢の子供が自国の誇れる先達の業績を眺め入っていた。
 古い出来事で克明に覚えているものがある。多分長い時間の過程で記憶が完全に脳に蒸着しているのであろう。最近亡くなった稲尾和久投手がデビューして相手をバッタバッタと打ち取っている放送と情景は、それをどこで聞いたか、何をしていたかも覚えている。当時は下宿や食堂ではまだテレビを置いてなく、ラジオが主な報道媒体であった。
 日本シリーズで稲尾が満塁ホームランを打って試合をひっくり返したという有名な出来事の実況中継は、就職して業務としての採水をしている時に何処かからか耳に入ってきた。ルーチンの採水は午前中に終えるが、ちょっと事情があり午後に原水採取が必要であった。西鉄ライオンズの絶好のチャンスに思わず手を休めていた時、ラジオから流れてきたのがサヨナラホームランの興奮である。稲尾の小気味よい投球とマナーの良さから稲尾ファンになっていたので嬉しかった。
 彼は守備からベンチに戻るとき、ロージンバッグを一定のところに置き、自分が荒らしたマウンドを均して相手の投手がやりやすいようにしていた。言葉つきも丁寧であった。亡くなった時に報じられたテレビを見ると、当時の顔は亀田兄弟、特に末弟によく似ていた。言葉使いには雲泥の差がある。見習ってもらいたいが今更無理か。俺流で多くの人から反発を買っている落合満博が絶対逆らえない唯一の人と言っているのが良く分かる。
 当時の西鉄ライオンズは野武士軍団といわれ、高倉、仰木、豊田、中西、大下、関口などそうそうたる顔ぶれであった。稲尾が快投していい気になっている時に、中西、豊田が「野球は一人でやるものではない」とわざとと思われるエラーをしたのは有名である。今のような管理野球ではなく、また金に釣られて入団したのではなく、そこで成長した選手が多かったので、選手が地面と一体化している雰囲気と「さあ来い」という息吹が、たとえラジオのスピーカーからでも感じられた。↑ページトップ
071129 大食い

 テレビでよく大食い競争をやる。外国でもやっているようであるが、小生の嫌いな番組の一つである。何の意味もない、一定時間内に沢山食べるだけを競うことに何の意味があるというのだ。食べている姿もみっともない。もっとも意味を問うたら意味のない番組はほかにも多い。しかし大食い競争は地球上に飢えている人が大勢いるというのに食べることをゲームにするなんてとんでもない。ただでさえ食い過ぎは止めましょうと言われているのに。面白ければいい、視聴率が稼げればいいというわけでくだらない能力を競わせている。野放しの市場原理が悪く働く事があるという典型例である。テレビでやればそれが正当な遊びであると取る向きが多いのである。
 食い物を遊びにするというのは許せないと言うのは、食べることが困難な時代を過ごしたジェネレーションのぼやきかも知れないが。グルメということにも何となく後ろめたく感じることもあるが、同じ金を出して食べるなら美味しいものを食べるのは悪くない。もし美味しいものを作るために多くの廃棄物を生み出しているならやはり問題である。
 よく消費期間切れの食品販売が問題視されるが、マスコミは店頭の商品を選ぶ時に消費期限内のものなら出来るだけ古いものから買うことを宣伝してもいい。廃棄物が相当減少するはずである。テレビ番組に価値を求めると見る番組が少なくなってしまう。少なくなるということはチャンネル数はそんなに要らないということになる。ニュースと天気予報は役に立つ。ただ天気予報も気象庁発が中心だからみな同じである。気象予報士の個性が出てあの人のものはよく当たるといったものに変えることが出来ないのか。
 関西で見られるABC放送の「ムーブ」と毎日放送の「ちちんぷいぷい」はいい。しかし昼間働いている人には見られない時間帯なのが残念である。あのような番組をもっと作って欲しいものである。何がおかしいかわからないお笑い番組やトーク番組が多すぎる。電波の無駄遣いだしお笑いの質が低下するのを加速している。「新婚さんいらっしゃ〜い」はいい。↑ページトップ
071128 仁 義
 小生の高校生の頃、クラスで仁義を切るのが流行った。やくざ用語の「チカヅキ」である。「手前、小国は駿河、姓はカネコ、名はミツミと発します。・・・」などと言うのである。仁義切りは寅さん映画で「生まれも育ちも柴又の・・」とよく出てくる場面があるが、それよりより以前の時代である。進学校であったが、たまたま素行の悪い連中が多く集まったことが関係したかも知れない。ほんとうにやくざの組に入り、退学した者もいた。
 真偽のほどは定かでないが、やくざが仁義を切っているときにとちると殴られたり切られても仕方ないと聞かされ、間違いなくスムースに切るように努力し、その方法が英語や国語の教科書を読むときに淀みなく読めるように努力することにつながった。運動部に属していたこともあり、素行のよくない連中とも付き合うことがあった。仲間になるというのではなく、道であったら挨拶をし、途中まで一緒に歩くといった程度であるが、相手は不良だから話もしないというようなことはなかった。要するに悪といわれるグループの近くまで接していたということである。
 父親は清水一家の小政の孫と言う人とよく酒を飲んでいた(当人は堅気である)。清水一家と言っても知らない人もいるかもしれない。カラオケで年配者に人気のあるディックミネの旅姿三人男の歌詞一番に出てくる「粋な小政の・・・」の小政である。「なに言ってやんで、べらもうめえ」といった調子で歯切れがよく、気風がよくて傍から見ていて気持ちいい人だった。
 母親は職人の子を暴力団組織から引かせるために組にお願いに行ったことがあり、怖かったけれど成功したと言うのを聞いたことがある。このようなこともあり、悪のグループに物理的に近づくことはそれほど違和感を持っていない。小生も頼まれて組の会合に行って手紙を渡したことがある。断ればよかったのにどんなところか怖いもの見たさがあり出掛けて行った。映画で見るほどの異様さはなかったが緊張した一瞬であった。
 祭りの夜に他校生徒と話しているとき相手が刃物をちらつかせたりするということにも出合った。切りつけられたらどのように防ぐかを常に考えていた。柔道の背負い投げで相手を飛ばしても、喧嘩慣れした者は飛ばされるように担がれながらも、背中に乗せられたときに背後から相手を刺す技を持っていることを十分計算していた。
 人が刃物を持っていることを不思議に思う人が多いが、それはまじめな人達で、ちょっと悪に興味を持つ若者はたいてい持っていると見たほうがよい。そんなことも知らない人を委員にした委員会では、いくら議論しても違った内容を議論したことになり、何の役にも立たない。憲法9条の議論も自分と同じ行動傾向の人達で世の中が構成されていると思っていてはよい結論には達しない。↑ページトップ
071127 メンチ切り
 死語になりつつあった「メンチ切り」という単語がボクシングの亀田一族により息を吹き替えしてきた。1980年代によく使われた言葉である。このコラムを読むような方々には無縁の単語だから意味の分からない方もいるかもしれない。相手を睨み付けることである。
 小生の高校生時代は「がんづけ」と言われていた。相手を睨むことで自分の優位さを示そうというもので、決して品のいい行動ではない。目をそらすことは自分が負けたことになると勘違いしていつまでも睨み合いをすることになる。獰猛な動物と出くわして目が合ったら目を逸らしてはいけないという。相手に襲われるからである。そのときの心境と同じで、睨まれた者も負けじと睨み返す。大相撲の仕切りでも時々見られる。千代の富士が現役の頃時々やっていた。彼はウルフと言うニックネームがついていたので、それにふさわしいパフォーマンスと思っていたのかもしれないが、大相撲の場合もあまり品のいいしぐさとも見えない。魁皇は睨むことに興味が無いような仕切りをする。性格が現れるのであろう。人気のある由縁である。
 亀田一家のメンチ切りは喧嘩そのもの行為である。チンピラ・不良がよく「がんづけしやがったな」とか言って喧嘩したことが報じられるが、それと同じである。相手を威嚇し、それによって自分の気力を盛り上げる行為であることは分かるが見苦しい。これから戦うことが決まっている相手にそんなことをする必要もないし、もしかしたらかえって相手を奮い立たせるかもしれない。負け犬の遠吠えで、弱い犬ほどよく吼える。街で散歩している犬をよく見かけるが、大きくて強そうな犬は、小さくて弱そうな犬が自分に吼えても知らん顔をしている。スポーツ選手なら犬にも劣るような行為はすべきでない。
 柔道は試合前にお辞儀をしてすぐつかみ合うから、睨み合いをする時間が無い。しかし相手の顔を見ながら相手の全身に神経を行き届くようにすると、相手が技を掛ける瞬間が察知できる。剣術では相手の顔を見ながら刀を振るうのと同じである。しかし今の柔道はポイントを稼ぐスタイルになったので、顔を見ながら試合をする選手はいない。断っておくが、柔道の場合は「メンチ切り」ではないから相手の目を睨むのではない。見るとはなしに相手の全身に注意を行き届かせるのであるから、顔は相手の顔に向けているが、喧嘩のように睨みつけるのではない。そんなことをしたら負けてしまう。
 「四十過ぎたら顔に責任を持て」と言われるが、年を重ねるにしたがって顔にその人の品性が現れてくる。メンチ切りをするような人は人を怖がらせる風貌になり、風格というものがまったくない。本人はそれが目的か知らないが、それを持ち上げる人もいる。同じレベルの人と見てよい。そういう人達がテレビでよく出ている。イヤな世の中だ。
 試合でなく、普段でも相手の顔をじろじろ見るのは失礼である。会話のときも睨みつけるようなことは必然的に避けている筈である。しかし時にそういう御仁に出会うこともある。また電車の中などでよく人をじろじろ見る人がいる。案外多いのである。「人をじろじろ見るのは止めましょう」と小さい頃から躾ける必要があると思っている。↑ページトップ
071123 消費期限
 賞味期限のほかに消費期限というのがある。製造日を含めて概ね5日以内に急速に品質が低下するような食品に適用される。この場合も安全を見越して設定されているから1〜2日ぐらい過ぎても食べられる。小生はあまり気にせずに買うので、家族にいつも「こんな古いものを買ってきて」と怒られる。
 食品棚に置いてあるものを手を伸ばして奥のものから買うような行動を取ると、食品廃棄物の出る量が多くなる。食べられる範囲で消費期限の古いものを買えば廃棄物の出る量は減るが、出来るだけ新しいものを欲しがるのはわが国の消費者の一般的行動のようだ。しかし、この飽食のわが国で生活保護辞退者から年間50人以上の餓死者が出ているのである。
 昔は食品に賞味や消費の期限は書かれていなかった。消費者の判別能力が頼りであった。自ずとそのような能力は昔のほうがあったであろう。どの場合もそうだが、数値化すると数字が一人歩きして、数字の元になる現象を捉える力が衰えてくる。食品の鮮度を見抜けなくなってくる。食品の種類と売り場が多くなり、また時間的余裕もなく、もはや個人の能力では追いつかない時代かも知れない。食品のいろいろな問題に対して、行政の現場を批判する声も聞くが、それは当たらない。現場の食品を見回る食品衛生監視員は全国で7500名程度である。都道府県によって差はあるが国全体で見れば国民16000人に一人である。また検査装置が足りない。企業が安全性を犠牲にして利潤を上げようとするように、食品の安全性も同じ状態に置かれているのである。
 保健所の能力が弱体化している。安全性を高めるなら、同じ仕事の繰り返しで一見無駄なような仕事が必要なのである。単純な費用・便益では評価できない。水道の水質検査でも同様である。われわれは、安全で不味くない、できれば美味しいものを食べたい。安全は消費者が判断できる場合と行政が頼りの場合がある。行政の判断レベルは経費に左右される。↑ページトップ

071122 テレビ好き嫌い
 テレビでよく大食い競争をやる。外国でもやっているようであるが、小生の嫌いな番組の一つである。何の意味もない、一定時間内に沢山食べるだけを競うことに何の意味があるというのだ。食べている姿もみっともない。もっとも意味を問うたら意味のない番組はほかにも多い。しかし大食い競争は地球上に飢えている人が大勢いるというのに食べることをゲームにするなんてとんでもない。ただでさえ食い過ぎは止めましょうと言われているのに。
 面白ければいい、視聴率が稼げればいいというわけでくだらない能力を競わせている。野放しの市場原理が悪く働く事があるという典型例である。テレビでやればそれが正当な遊びであると取る向きが多いのである。食い物を遊びにするというのは許せないと言うのは、食べることが困難な時代を過ごしたジェネレーションのぼやきかも知れないが。
 グルメということにも何となく後ろめたく感じることもあるが、同じ金を出して食べるなら美味しいものを食べるのは悪くない。もし美味しいものを作るために多くの廃棄物を生み出しているならやはり問題である。よく消費期間切れの食品販売が問題視されるが、マスコミは店頭の商品を選ぶ時に消費期限内のものなら出来るだけ古いものから買うことを宣伝してもいい。廃棄物が相当減少するはずである。
 テレビ番組に価値を求めると見る番組が少なくなってしまう。少なくなるということはチャンネル数はそんなに要らないということになる。ニュースと天気予報は役に立つ。ただ天気予報も気象庁発が中心だからみな同じである。気象予報士の個性が出てあの人のものはよく当たるといったものに変えることが出来ないのか。
 関西で見られるABC放送の「ムーブ」と毎日放送の「ちちんぷいぷい」はいい。しかし昼間働いている人には見られない時間帯なのが残念である。あのような番組をもっと作って欲しいものである。何がおかしいかわからないお笑い番組やトーク番組が多すぎる。電波の無駄遣いだしお笑いの質が低下するのを加速している。「新婚さんいらっしゃ〜い」はいい。↑ページトップ
071121 木材利用セミナーに出席して
 11月19日に、木材利用セミナー「家づくりと国産材」(近畿中国森林管理局、大阪府主催)に出席した。自分の専門とかけ離れているので出席するかどうか迷ったが、特に予定も入っていないので行ってみることにした。会場は源八橋西詰にある近畿中国森林管理局である。谷町四丁目から歩いて往復した。天満橋からは大川沿いの散歩道である。帰りは暗かったが河畔がライトアップされていてきれいであった。川に向かってベンチが連なっていて絶好なデートコースだが、少し寒かったせいか誰も座っていなかった。東京の日比谷公園から皇居外苑にかけてのベンチはこの程度の寒さなら若い二人が抱擁している光景が連なり、眼の保養ができるところを、そんなことに興味がないとやせ我慢して通過した経験がしばしばあったことを思い出した。多分、通勤やショッピングの経路になっていないので若い二人連れがわざわざ来ないのではないかと想像した。
 ところでセミナーの一つの演題は京都大学生存圏研究所の河合秀一教授による「木づかいのススメとその後の展開」であり、荒廃する日本の森林を如何に活性化するかということがメインテーマである。
 森林を環境資源としての機能には国土を守る、水を守る、生物の多様性を保持する、二酸化炭素を吸収するといったものがあるが、わが国の環境価値は70兆円あるそうである。木材、キノコなど、林産業を生産する地域経済の活性化に役立つという木材の国内産業としての価値は4兆円とのことである。国産材価格の低迷、林業経営収入の減少、山村の魅力低下、伐採・育林事業量の減少、国産材供給量の減少が森林の荒廃をもたらしている。なぜ国産材が使われないのか、国産材を使うためには何ができるか、資源循環型社会の実現にはどうするかなどのお話があった。環境をやっている者としてある程度は知っていたが、具体的な説明は大変興味があった。
 質問時間の時、もう質問する歳でもないから遠慮するつもりであったが、他になかったので質問を促す意味で手を挙げた。わが国と同じ程度の自国材依存率の国とその国における森林対策についてお聞きしたかったが、他国のことはご存じないとのことであった。しかし、中国の森林率は現在は18%ですぐ12%に低下するとのことであった。それが日本の輸入状況に影響することは考えられるとのことであった。
 もう一つの話題は、もく(木)の会の藤田佐枝子氏の「杉、桧でつくる健康空間」であり、木の効用には室内空気の清浄化、有害な化学物質除去、健康増進効果、調湿性、抗菌作用、断熱性、音や光がやさしくなるといったものがあり、それらを生かすためにおもに建材、住宅内部の調度などに木材を積極的に利用する事を薦めるとともに多くの具体例を提示された。良い点の提示例が続いたので、少し宣伝臭が漂ったのは否めないが、木のやさしさがもつ利点は再認識できた。小生の自宅も20年も前に床をリノリュームから桧に変えた。
 彼女に対しても、止めておけばいいと思いながら、イヌなどのペットは桧がいいか杉がいいかと質問した。桧と杉では仕上がった後の効果が異なるという例が多く示されたからである。人の感覚より動物のほうが直感的にどちらが生物によいか見抜くのではないかと思ったからである。動物への効果を調べたことはないが、ネズミが杉の板に蹲ったことがあるし、子供は杉の床の部屋のほうを好むとのことである。どうも杉に囲まれた状態のほうが健康によさそうであるが、そうであっても花粉症の小生は花粉をあまり出さない品種の普及を望む。↑ページトップ

071119養成講座聴講記 -価値観が変われば
 11月17日にNPO環境技術支援センターが行っている環境技術指導者養成講座に出席した。前半は(株)地域環境システム研究所の西田一雄氏の「環境産業とビジネス展開」であった。ビジネスであるからカネを儲けなくてはならないが、環境で稼ぐには環境問題を熟知していなくてはならない。講義はそこに視点が置かれていて大変興味深かった。
 国内の法制度と法的規制、海外からの規制・要請強化とグローバルスタンダード化、生産、経営の合理化と効率化、社会ニーズの上昇と市民参加の問題などに触れ、それらがビジネスとどう結びつかの具体例が述べられた。これからは生産・消費活動を通じて廃棄物をできるだけ出さないことが必要で、そのためには価値観の転換が欠かせない。
 講義の中でその一つの方策として所有権でなく使用権を優先し、所有概念を変革して機能を利用するという概念の説明があり、例としてカーシェアリングについて映像を交えて説明があった。最近車の売れ行きが減ってきたが、これが所有欲から使用という機能を利用するということを優先するようになりつつある傾向の現われと判断するのは早計である。しかしカーシェアリングなどのような行動を通して機能のほうを優先するという心が大きく芽生えれば、所有欲からの脱皮に繋がる。
 所有欲の最大の対象と思われるものに住宅がある。家を建てるという事が環境に与える影響は大きい。しかし、200m(w)×200m(d)×30階の住宅を200棟造れば、1軒10m四方、1軒4人として大阪府の人口は全て吸収できる。ちょっと味気ない例であるが、所有欲を犠牲にできれば環境負荷が相当に減る例である。
先進国とは?
 後半の講義は、大阪産業大学の浜崎竜英准教授の「ワークショップで国際貢献・交流を考える」というもので、本養成講座で初めてワークショップ形式で行われた。
 環境問題の規模別種類、国際的取り組み、開発途上国の環境問題などについての概略の説明の後、2組に分かれ、開発途上国のある環境問題について、一定の条件の下にPCM(Project Cycle Management)手法によってケーススタディを行った。この受講生参加型のワークショップは大変有効で、時間が十分あったとは思えなかったがいろいろな意見が集まり集約された。 他人と意見を交換する過程で思考が進み、的を射た意見が創成され組み立てられた。よい試みであった。
 彼等が作業している間にちょっと感じたことは、途上国を援助するということは何かと言うことである。手をさしのべて自分の位置に引き上げることであるが、わが国が経済大国になったことがいいことという前提があるようである。それほど大国にならなくてもよかったのではないか。経済大国になった分だけ失ったものも多いような気がする。
 現在は何をするにも電子媒体が入り込んでいる。一見便利になったが、便利になった分だけ失ったものも多い。電気を通じて電子媒体の反応を利用するということは速度が等身大のスケールを遙かに上回っている。そこでは日本人の特徴である「間」を削り取っている。相手の顔を見なくても済むようになってきた。そのため日常生活や人付き合いに深みが無くなってきたし、今まで考えられなかった犯罪が多発している。人と話す時は、無言の時間も意味があるのである。その時間が無くなってきている。もしかしたら、精神的ゆとりの後進国になって、インドその他の国から精神的な援助を仰ぐようになるかも知れない。
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071116産地偽装
 産地偽装は、昔の歌で「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし・・・」という歌詞があったが、牛肉には変わりがないからよく知られたところの肉の産地の名前を使おうとするものである。この場合、消費者にはどうせわからないからというという判断がある。鶏肉を牛肉に誤魔化してもわかってしまうからそのようなことはしない。ただ、消費者の味覚で判断できない場合はその可能性がある。
 消費者がわからなければそれでよいのか。人間は感性の動物である。人が美味いと言っているのにつられたり、あそこの地域は農薬を使ってないからという情報を聞いてそこの野菜は安全であろうと予測したり、目で見た風景をダブらせてそこの産物を買うことだってある。だから産地を誤魔化すのはよくない。
 序でに美味しさについていうと、美味しさの判断は個人差が大きい。自分が美味しいと思えばそれでよく、他人にとやかく言われたくない。テレビで味を自慢している人を見ると無性に腹が立つ。美味しさなんて人間が毒を見分ける能力として授かったもので、美味しさを文化的に見るのは邪道と思っている。
 地球上の食糧は人類を養うに精一杯で味を楽しむほどの量は存在していないことを知るべきである。と言いつつも、同じ金を出すなら美味しいもの(自分にとって)をと店を探すことがよくある。テレビにおける美食に関する報道はほどほどにすべきであると言いたいだけだ。
 自分こそは味がよくわかるという人は多いが、味を判別できる人はそんなにいない。一種類の味の美味しさを微妙に区別できる人や、一種類についてはそれ程ではないがいろいろの味を区別できるタイプの人もいる。両方の能力を同時に持っている人は少ない。だから偽装について、食べてこれはおかしいといって見破るというよりも内部告発の電話で知る事がほとんどである。ちなみに、上記の歌詞は「お座敷小唄」の一部だが、もうパソコンで歌詞検索をしても出てこない。もう「昔」の歌である
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71115 賞味期限
 食品の偽装問題が賑やかである。中国で段ボール入りの肉まんが報じられた時、酷いと言うよりもそのアイデアに感心したが、やらせで片が付いた。一度試食してみたかった。もしかしたら便秘とダイエットにいいような響きがあるからである。この事件は重金属や添加物の高濃度食品による中国製の食品の不信を一段と高めた。
 その頃まではわが国の食品は大丈夫と思っていただろう。しかし今年6月に北海道のミートホープの牛肉ミンチの品質表示偽装事件(それ以前に添加物量違反で業務停止命令を受けている)が明るみになった後は、出るわ出るわ、石屋製菓(白い恋人)、赤福、船場吉兆その他、いわゆる老舗と言われるところを含む多くの会社が偽装を行っていたことが暴き出されている。中国を笑えない。
 偽装していたことがわかるのは内部告発が主なルートだから、明るみに出ないものを含めてまだまだいくらでもあるであろう。2000年に雪印乳業が品質管理の悪さからくる集団食中毒事件があった。同時に古い牛乳を不衛生な方法で回収することが表面化した。この場合は13420人の黄色ブドウ球菌毒素による患者が出た。2002年に雪印食品が牛肉偽装、補助金詐取事件を起こし、雪印全体の経営がゆさぶられた。2006年には不二家が消費期限切れ牛乳を洋菓子に使用したという事件があり、この場合も会社グループ全体が相当のダメージをうけた。
 たとえこのような大企業でも品質の悪い製品の販売あるいは偽装は会社の存続にかかわるダメージを与えるという先例があるにもかかわらず、偽装事件が後を絶たない。わが国の最近のマナーの悪さがこういうところにも顔を出しているのか。製品自体が悪くて、雪印乳業事件のように患者が出るのは論外として、最近報道される偽装事件は産地や賞味期限の改ざんがほとんどである。
 汚染や有害物質に関するものは少ないので、健康を害したということはない。賞味期限は劣化の比較的遅い食品に対して、衛生面による問題よりも品質についての記載で、「製造年月日の表示は自由貿易の障害となる」という外圧も加わって表示が決まった。製造者が製品の統計的バラツキを求めそれに十分な余裕を考慮して決めるものであるから、製品がもともと安全なものなら、賞味期限が切れたからといってもすぐに問題になるという性質のものではない。
 小生は賞味期限切れの食品を食べることはしょっちゅうである。だからといって、製造者が期日を書き換えることは許される行為ではない。いったん与えた保証をこっそり書き換えるという誤魔化し行為だからである。書き換える時の心理としては、たとえば「60日間は品質は変化しないが、消費者に新鮮味を与えるために30日にしただけだから、まだ商品価値はあるから賞味期限内に売れ残ったものをあと10間伸ばして売ろう」とするようなところがあるのではないか。製品そのものはまだ食べることが可能だからである。だから許される範囲の行為と思って気軽に書き換えるのではないだろうか。モラルの低下がそれに拍車を掛けている。↑ページトップ

071113 参議院無用説
 今度の大連立政権騒ぎで気になったのは、もしかしたら本当に参議院は要らないかもしれないということだ。もともと第二衆議院みたいで衆議院のやり方を修正する機能を果たしているとは思えず、たんなる追認機構みたいであった。そこで今度の事件で、民主党側が「先の参議院選挙でわが党が圧勝した。そのことはわが党の政策に民意が得られたことを示す。そのわが党が政策を実現するためには党首を交代できない」というようなことを盛んに言っていた。参議院で勝ってその数で立法を制するという論法である。
 もし衆議院を解散して自民党が勝ったら、今度は与党の法案を尊重するのであろうか。そうであったなら直近に行われた選挙だけが立法の機能を果たすわけだから1院制で十分である。必要の都度選挙をやればよい。選挙中の空白期間は短期間であるから、立法とそれに関する調査はしなくてもそれほど支障はなく、今までもそのような事態はなかった。
 また今のようにねじれ現象下で両院が対等の機能で「数」で法案を通そうとすると、いつまで経っても法案は通らない。法案が通らなければ、国民が困る場合もあるし、他方、新しい法案に対処する必要がないだけ官僚が楽をする。もちろん官僚の苦労を取り除く法律が通らなければその分だけ彼らは楽はできないが、それ以外は官僚がますます事務に精通するので、いっそう政治家が太刀打ちできなくなる。
 このように、参議院のチェック機能が有効に作動せず、直近の選挙による「数」を重要視する体制では一院制で十分である。経費削減が盛んに叫ばれている現在、一院制にすれば相当の費用が削減できるのではないだろうか。その場合衆議院の選挙が増える可能性があるから選挙費用の削減はそれほど望めないかもしれない。参議院が必要なら今こそその必要性を国民に分かるように説明が必要である。憲法にあるから必要という説明なら、国民のためになるように憲法を改正すれば済むことである。↑ページトップ
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